無限と有限

「悠々たる哉天壌。遼々たる哉かな古今。五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチーを価あたいするものぞ。万有の真相は唯一言にして悉つくす。曰く「不可解」。我この恨みを懐いて煩悶終ついに死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。」(藤村操)

明治36年。北海道出身の旧制一高生、藤村操が16歳の若さで華厳の滝で投身自殺をした。

当時は一高へ入り、帝国大学に進学することがエリートコースだったと聞く。

そんな、エリート街道まっしぐらの若者による自殺は、厭世観を綴った文頭の遺書(厳頭之観という)も相まって、大変な衝撃を与えたらしい。後追い自殺をはかった人が100人以上いたらしいので、とんでもない事件だったのだろう。

16歳といえば、今で言うところの高校1年、または2年生くらいか。

その若さで人生を諦めてしまった事に悲しくもなるが若い彼にとっては、全てを知ることは不可能だという事実は、何よりも絶望を感じるものだったのかも知れない。

それに、その辺りの年齢だと本当に、全てが手に入れられるような、無限の可能性に満ちているようなそんな万能感のような気持ちもあっただろう。

それでも、彼は賢すぎた。人生は有限だと気づいてしまった。

有限の命で、無限の世界を知る。その矛盾に。

その失望感で、貴重な有限の命をも散らせてしまった。その少年を、世間はどう見ていたのだろうか。

私はただ。愚かだなぁ。と、残念な気持ちになる。

はるか昔から、全てを手にした権力者が最後に求めるものは不老不死であったと聞く。

けれども、万が一、永遠の命を手にしたとして、果たしてそれは幸せだろうか?

手にしてすぐは、高揚感で幸福な気持ちになるかもしれない。

でも、それが永遠に続くとなればどうだろう。平々凡々な考えの自分は、退屈で仕方なくなると思ってしまう。

人生は、終わりがあるからこそ、尊いのだ。限られたものだから、強く輝くのだ。

無限の世界に、有限の命をぶつけるから、強く、大きな火花を散らすのだと。

そう、信じたい。

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