なぜファンタジーとかSFとかいいたくないか-あるいは小説の分類について

TL;DR

世界観による分類と物語構造による分類がある。

エンタメを分類せよ――上手に!

 世に到底消費しきれない量のエンタメ作品が溢れる昨今、読みたいものを読み漁るには無鉄砲にスコップを振るわけにはいかない。自分は何を読みたいのか? 読んで面白かった作品だ。面白かった作品に似ている作品は面白いと期待できる。よって作品を分類することは公益にかなう

 しかしジャンル分けというのは兎角難しいものだ。一口に剣と魔法のファンタジーといえど「中世ヨーロッパが舞台」「中世ヨーロッパ風の異世界が舞台」「全く異なる世界が舞台」くらいの細分化はすぐに思いつく。更に「ファンタジーをモチーフとしたVRMMOが舞台」「RPG風のステータス概念が存在する異世界が舞台」と、殆ど同じ名詞が出現するはずなのだが、どうか。現代ダンジョンはVRMMOの換骨奪胎で~と続く。

 あるいはSFについて、広義のSFというとスペースオペラやポストアポカリプスといったサブジャンルを含むとされるが、この二つだけでも趣はまるで違う。田中芳樹『銀河英雄伝説』とつくみず『少女終末旅行』の共通点なんてタイトルの文字数ぐらいだといいたい。逆に狭義のSFは何かと問われると答えに窮する。スペオペとポスアポと、後は何を除いたものか。

 斜線堂有紀『回樹』は読まれたか。SF短編集だが、収録作の(ステレオタイプ的な意味での)SFらしさには幅がある。表題作の『回樹』にはSCPオブジェクトめいた像、『奈辺』にはドラえもん的宇宙人と、それぞれ非現実的な人物が登場していかにもSFらしい。対して『骨刻』の骨に文字を刻む技術はもう現実にもありそうな。『BTTF葬送』に至っては思想だけだ。それでもこの短編集は一貫してSFだったと筆者は思う。

 分類のうまくいっている例はミステリだろう。ミステリ読みは美味しい汁を吸っているなぁ? ミステリを求めてクトゥルフに出会すのは稀なことだ。フーダニットやホワイダニットといった謎解きの種類での細分化、または館ものみたいな切り分け方もできるが、いずれにせよ、事件が起きて、推理によって真相が明かされる。

 分類としてのファンタジーとミステリは何が違うのか。分類の仕方がそもそも違うのだ。ファンタジーは世界観による分類だ。剣と魔法、エルフとドワーフ、多種多様なファンタジーらしい名詞があって多ければファンタジーらしい。剣という単語をビームサーベルに置換するとファンタジーらしさを損なう。対してミステリは物語構造による分類だ。米澤穂信『折れた竜骨』は魔法が存在する12世紀イングランドが舞台だが、事件が起きて推理するから、ミステリだ。二種類の分類は直行している。

物語構造で分類しよう

 最初に反対意見を出してしまうと、漫画や映画は世界観が物語に勝る。絵に備わっている世界観を説明する能力は絶大だ。九井諒子『ダンジョン飯』の魔物食に私はSFを感じている一方で、画面全体の雰囲気からまずファンタジーとみなしている。SFと称して薦められたら「まあ……SF要素もあるが……」ぐらいの気持ちにはなる。ここでは小説にしか成り立たない話をしていると思っていただきたい。絵がないやつね。

 また、物語構造は足し算できる。謎と真相だけなら普遍的な概念だ。逆に探偵と助手の恋愛模様が描かれるのもよくある話。だから成分で考えよう。ミステリとラブロマンスは分離可能で、足すと1になる。ミステリ成分が主成分ならミステリといって異論はない。

 ミステリは謎がフリ、真相がオチになる物語だ。課題の発生と解決といえば驚くほど普遍的でプリミティブな構造だ。構造の強さがエンタメ性を担保しているのだろう。あまりにも構造が強いから、他の物語構造と組み合わせても安定して主軸になる。納豆菌くらい強い。強すぎて特に書くことがなく驚いている。

 SFを還元主義的に分解したとき、最後に残るもの、SFをSFたらしめているのは「もし~ならどうなるか?」なる思弁だけだというのが筆者の考えだ。SFはもしもボックスだ。まず現実と異なる仮定(単に未来ということもある)が提示され、そこから話を膨らませてゆく展開がSFといいなせる。膨らませ方が意外で面白い発想だと、面白いSFと感じる。

 このSFの定義はサブジャンルの出現と分離を説明しやすい。同じ世界設定を擦りすぎてアイデアが出尽すとSF成分が薄れてゆくが、パブリックイメージの成熟に耐えて、ずっと美味しい出汁が取れる世界観はサブジャンル化する。原典とは分類の軸も評価の軸も変わっている。ポストアポカリプスの荒涼とした雰囲気は好きだが、発想の目新しさは問題にしない。

 この意味で真にSFの亜種というべきものは、異能バトルかもしれない。「彼と彼が戦ったらどうなるか?」は「もし~ならどうなるか?」の変形だとみて異論はないだろう。現実とは異なる仮定があって、その影響を考慮する範囲が個人あるいは個人間のやり取りに限定される。

 かつてWeb小説投稿サイトでは一極集中があった。一つのパイを奪い合うことに疲弊したとき、二つ目のパイが現れた。別のジャンルである。いわゆるなろう系の歴史は、小説家になろうのランキング編成の歴史といって過言でない。ランキングは世界観によって分けられた。パイを増やすため、すなわち各ランキングに分散するために、世界観によらない物語構造が重視された。

 なろう系にみられる長文タイトルは、分類のための自助努力として必然的に発生したというのが筆者の仮説だ。世界観からの脱却にインセンティブがありながら、掲載サイトからは世界観でしか分類されない。この矛盾を解消するために、物語構造を一番目立つ場所、すなわちタイトルに掲示する文化が発達したのではないか。

 思考実験を巡らせよう。小説家になろうの逆をなしたらどうなるか? 世界観と物語構造の扱いを逆にする。つまりジャンル別ランキングが追放ものやスローライフものと分類して世界観を無視するとき、何が起こるだろうか。分類のための自助努力によって、世界観を提示するタイトルとは、うーむ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?