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文章組手「差別」2500字

 相手ができる行動を奪うことは差別ではないのかと考えてしまう。

 例えば目が見えない人が駅のホームを歩いている時、歩みに迷いが見えない堂々とした進み方。しかし、数歩先には階段があり二股に分かれている。これは声を掛けて手伝うべきなのか?
 声をかけると「自分でやれます」と言われはしないだろうか?その人が自分の力でやれる行為を奪ってしまうことにならないだろうか?実は困っていて「誰かに手伝ってほしい」と思っていないだろうか?
 こんな風に思ってしまったら私は傍観者でいるしかなくなる。その人に触れなければ変な遠慮は発生しないし、何も起こりようがないからだ。だが、それも良くないことではないのか?

 私は「自分でできること」を過剰に手伝われると「こいつワシを舐めとるのか?」と考えてしまう。「その程度のこともできないのだろう」と考えてしまう。もちろん手伝ってくれる方のほとんどは人間的優しさ、奉仕の思いで手伝ってくれているのはわかる。しかし、私は「自分でやりたい」との思いがある。
 誰をどこまで手伝うのか?もしかしたらこの考えは非常に差別的なのかもしれない。相手によって手伝う度合いを変えてしまっている。だが妊婦に電車の席を譲ることは相手を「舐めている」のか?多分違う。少なくとも私は「大変そうだし少しは楽してくださいよ」の思いで譲っている。

 人に上記のような思いを話したことがあるが「自分が思った通りにやれば良いのでは?良いことをしているんだし」と言われたがしっくりこない。別に良いことをやりたい訳ではない。目の前の人が「できない・やれるが大変なこと」を機械的に手伝っているだけだ。そう、機械になれば良い。単純な判断。そこに感情とかが入るから面倒になる。
 目の前の人が困っている。明らかに困っている。ならば普通に手伝えば良い。そうやれたら一番。だけどココロがバキバキに弱い私はまた「実は困っていなかったらどうする?・人に声を掛けられることが申し訳ないと思っている人ならどうする?」と考えすぎてしまう。
 とはいえ関わらずにスルーするのはココロがモニョる。いや、モニョるのもこっちが勝手にモニョっているだけなので非常に不遜な話ではあるのだが。

 差別は非常に難しい。自分の思いと相手の思いのミスマッチからも生まれてしまうのではないかと考えてしまう。また、手伝うにしても「手伝ってお前がいい気分になりたいだけでは?」の問いが発生し、ココロがヌギャーと叫びだす。

 こんなことを書くのはダサいが私は割と手伝う。ロクでもない人生を送ってきている自覚があるので、死んだ後に天国と地獄があれば「いやいや、こんなこともしてきましたよ。これは善行ポイントアップ行為ではないですか?」と審判者にプレゼンをするためだ。

 人には席を譲り、精神に障害がある人同僚が落ち込んでたらある程度の仕事を再分配して負担を軽減し、目の見えない人が明らかに困っていたら道案内などもする。
 その行為の裏ではいつも「これは本当に正しいのか?」がぐるぐると巡る。正しいことをやりたいのではない。やってもいちいちツイッターで報告などもしない。ただ、困っている人がいるから手を貸すそれだけなのに妙に考えだけが回る。

 ずっと手伝うとその人にとって良くないのでは?

 本当は必要ないけどせっかくだからと受け入れてくれたのではないか?

 協力なしで出歩く練習では?

 こんなことを考えてしまうのなら、最初からやらなければいいのだが、おせっかい焼きなのか善行ポイント集めに必死なのかついついやってしまう。

 過剰な優しさは差別なのではないかと考えている。人がやるべきことを全部やってやるタイプの人がいるけど、それってどうなの?って思いません?明確に言葉にするのはちょっとむずかしいけど、それって「人を人としてみていない」感じがするのですよ。
 考えすぎると優しさや思いやりのない世界になるとはわかっているのですが、やり続けていると「やってあげていることの優越感」などもたまに持ってしまうこともあると思うのです。

 この微妙な気持ち、やっていいのか駄目なのかわからない気持ち、これを皆と共有していきたい。もし、自分に何かしら障害があって、助けてもらったら気持ちに整理がつくのかもしれない。しかし、この気持ち、整理しきってもいけないのではないかと考えている。
 ただただ機械的にやってしまうとそこには思いや優しさがないのではないかと、ただの状況排除になってしまうのかと。だけどさー!思いとか優しさって自分の中のことでしかない訳じゃないですか。だから、表に出るのは単純な行為であり、その行為を受ける人からしたら結局は機械的になる訳で。だからこっちが「大変そうなので手伝います」や「お辛いでしょう。どうぞ」なんて言ってしまうとウワなにこのクソキモ人間になってしまうのです。

 もう俺は親切と行き過ぎてしまって結果的差別なラインが曖昧になってしまった。何をどこまでやればお互いにハッピネス世界で生きていくことができるのだ。
 その人ができる限りのことはしてもらってできない部分は手伝う。やりたいことは単純なのだ。障害のあるなしに関わらず単純に困っている人は助けるべきなのだ。そこにいろんなことを付け足してしまうから「差別になるのでは?」と考えてしまうのだ。

 言葉にしにくいことを言葉にしたらわけが分からなくなってしまった。多分まだまだ答えはでないだろうし、何をやってもやらなくてもモニョっとした思いが生まれるだろう。だからこそ、答えが出るまではやろうと思う。ここまでモニョってしまったのならもうやるしかない。そしてその先になるがあるのかを見つけてやる。俺は差別をしているのかどうか。多分、どこかではしている。そんな思いが100%ない聖人ではない。だからこそ、善行を、ただ善行を求め迷うのだ。

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