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冬の大三角

 シャープペンシルやラインマーカーがあちこちに転がっていくのを、踊り場の床で、麻里江(まりえ)は呆然とながめていた。
 階段を駆け下りてきた男子の集団に巻き込まれ、くるくる回ったのだ。抱えた荷物が手を離れていった。開けっぱなしだったペンケースからは、筆記用具が飛び散った。その中に麻里江は今、ぺたんと座っている。
「すいませーん!」
 わずかな救いは、さらに駆け下りながら彼らが口々に謝ってくれたこと。
(下を向いてたわたしも、いけないしね)
 ちょっぴり反省もしている。
 大学生の兄に「麻里江の『ま』は、まぬけの『ま』」とからかわれたとき、麻里江は反論した。「まじめの『ま』だもん」と。
「『ま』じめにやっているのに『ぬけ』ているヤツを、人は『まぬけ』と呼ぶんだぞ」
 と返されただけだったけれども。
 もうすぐ委員会が始まる。麻里江は2年2組の環境美化委員である。自分の持ち物を散らかしたままでいてはいけない、と、そばに転がるサインペンを手に取ったとき、
「ケガはない?」
 後ろから声がして、麻里江は「ひゃっ」とふりかえった。
 背の高い男子が、踊り場に立っていた。
 傾きながら立ち上がり、麻里江は答えた。
「だ、大丈夫です、無傷です」
 彼がのぼってくる足音に気づけなかった。
 すぐ後ろにいた? あの「くるくる」も見られてしまったんだろうか。
 顔を隠すようにかがんで、あたりのものをかき集めながら、麻里江は小声でいった。
「お、落ち込んでたせいなので」
 あ、違う、違う! 「うつむいてたせいなので」っていうつもりだったのに!
 足もとにしか注意を払っていない自分の「まぬけ」ぶりに落ち込んで動けなかったのだから、まちがいではないかもしれないが。
 彼が耳を傾けるしぐさをしたので、麻里江は急いでつけたした。
「それで、うちゅむいてたんです!」
 舌がもつれた。「うつむいてた」なのに! 絶望的だ。兄なら、ひーひー笑うだろう。
 ところが、そこにいる彼は真顔でいった。
「上を向くといいよ」
 上……?
 今度は麻里江が、彼に耳を向けた。
 定規を拾い上げながら、彼が答える。
「うつむくと、もっと落ち込むから」
「落ち込んだときの対処法」を教えてくれたのだと気づいて、麻里江はまじまじと見つめた。壁際まで弾んでいった麻里江の消しゴムを拾いにいってくれる彼を。
 学生服の襟章からすると、彼は三年生。名札は麻里江の位置からは見えない。初めて会う人だ、と思った。しかたない。各学年8クラスもあるこの中学校では、同学年の生徒さえ覚え切れないのだ……麻里江には。
 彼にとっても、麻里江は見覚えのない生徒のはずだ。それなのに、まじめすぎるまなざしで助言してくれた。そのことがうれしかったから、麻里江は「はい!」とうなずいた。
「落ち込んだら、これからは空を見ます。雲とか星……星のことは詳しくないけど」
 彼の目もとが、ふっとゆるんだ。
「それなら、まずは冬の大三角を……」
 その言葉は、上の階から呼びかける誰かの声にかき消されてしまった。
「須賀せんぱーい、みんな待ってまーす!」
 彼は「じゃ」といい、定規と消しゴムを差し出してきた。あやつられたように受け取りながら、麻里江は心に彼の名を書き留めた。
 須賀先輩、と。

「ふゆの、だい、さん、かく」
 北風を突っ切って駆け足で帰宅すると、制服のまま、スマホで検索した。まじめな麻里江だから、「学校に携帯電話を持ち込まない」という規則を守っているのだ。
 おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン、オリオン座のベテルギウス。
 これらの明るい3つの星が夜空に作りだす三角形、それが「冬の大三角」だ。
『それなら、まずは』と彼はいった。「冬の大三角」なら、星に詳しくない麻里江にも見つけられるといおうとしたに違いない。
 そう考えるだけで……あの声を思い出すだけで……ほっぺたが熱くなる。
(うわあ、何これ? どうして?)
 冷たい窓に寄り、麻里江は顔をくっつけた。
 空は厚く曇っている。今夜は、星の三角形の姿を知ることはできそうにない。
(須賀先輩のことは、いくつも知ったよ)
 顔。声。星の知識があること。落ち込むときは上を向けと、はげましてくれること。
「シリウス、プロキオン、ベテルギウス」
 その名も、麻里江は心に書き留めた。

『上を向くといいよ』
 その声が耳によみがえったのは、翌日の放課後のことだった。
 上を向いたら、須賀先輩がいたのだ。
(ああ! 環境美化委員でよかった!)
 委員には、校内を見まわって「環境美化レポート」を作る役目がある。今日の当番は麻里江なのだ。
 チェックポイントのひとつ、通称「ゴミ倉庫」は三年生の校舎の裏に設置されている。
「散らかったゴミは、なし。リサイクルの分別も、OK」
 チェックシートに○をつけて、ふと顔を上げたとき、校舎の二階、廊下に面した窓辺に、麻里江は須賀先輩の横顔を見つけた。掃除の時間に何か所か窓を開けたのだろう。それを今、彼が閉めているのだ。
(今週、掃除当番なんですね)
 彼について、またひとつ知ることができた。
 と、そのとき、腕をつつかれた。
「麻里江? こんなとこで何してんの?」
 いつのまにか、となりに志保が立っていた。手に通学バッグをさげている。帰るところだろうか。でも、ここは門から遠い。志保こそ、ここに何の用があるのだろう。
 戸惑って口をつぐむ麻里江に体の向きを合わせて、志保が驚きの声をあげた。
「もしかして、須賀さんを見てたの?」
 さらりと名を出されたら、「違うよ」といい損ねた。代わりにおずおずと問いかける。
「志保、あの先輩を知ってるの?」
「当然! 有名だしね」
「え、そうなんだ……」
 わたしが出会った、わたしだけの須賀先輩……そんな気持ちでいたのに。
 うつむきたくなるけれど、
『うつむくと、もっと落ち込むから』
 彼の言葉をかみしめて背筋をピンと伸ばし、麻里江は明るい声を作った。
「先輩のこと、詳しいんだね」
「まぁね。同じチームだったもん」
 そのひと言で麻里江も理解した。秋の体育大会はチーム対抗。チームは3学年縦割りで作る。1年1組と2年1組と3年1組がひとつのチーム、というわけだ。
 麻里江と志保は、小学校時代からの友だちだった。中2の今でもこうして気軽に話せる仲だけれど、中学校ではクラスが違う。体育大会でのチームも違うのだ。
「チーム対抗リレー、うちのチームはトラック半周分も遅れたじゃない? アンカーの須賀さんは追いついて、抜き去って、ゴール! カッコよすぎて、もう! あ……そうか、麻里江は見てないんだっけ……」
 志保の声がしぼんでいく。
 そう、麻里江は体育大会を休んだのだ。
 その日は病院にいた。ギブスで足を固定してもらうために。前夜、家の階段を踏み外したからだ。たった一段だったのに足は腫れて、痛みで眠れず、歩けもしなかった。
「まったく! マジで麻里江はまぬけだな! ちゃんと足もとを見なきゃダメだろ!」
 なぜか、家族でいちばん怒ったのは兄。でも、病院に連れていってくれたのも兄だった。
 がんばってきた練習が報われなかった。急な欠席でチームにも迷惑をかけた。もしかするとあのときから、麻里江はうつむきがちになったのかもしれない。
「残念だったね、麻里江。須賀さんはあの日のスターだったのに……」
 スター。それは星。見上げるもの。
 須賀先輩は、最後の窓を閉めている。
 目で追いながら、志保がいった。
「須賀さんって、ほんと、いいなー。彼の受験が終わったら、告白しちゃおっかなー」
 冗談みたいに軽い口調だったけれど、麻里江は気づいた。志保は本気だ。用もないのに校舎裏に来たのではない。彼の姿を窓越しに見つめるという、大事な用があったのだ。
(わたしたちは……ライバル?)
「友だち」が「ライバル」に変わるなんて、麻里江にとって、初めてのことだ。
 昨日と今日の分しか須賀先輩を知らない麻里江は、トラック半周どころか、二周も三周も志保に後れをとっている。
 追いつけない? 抜き去れない? 今うつむいたら、涙がこぼれそうだ。
 窓辺から、須賀先輩の姿が消えた。
 思いきって、麻里江は尋ねてみた。
「志保、冬の大三角って知ってる?」
 突然話が変わったせいか、志保はきょとんとしているだけだ。
(わたししか知らないこともあるのかも)
 落ち込むのは、今じゃない。
 麻里江は、ぐっと顔をあげた。
 空は晴れ、青く澄んでいる。今夜はきっと冬の星たちがきらめくだろう。
 シリウス、プロキオン、ベテルギウス。
 その大きな三角形の向こうに、麻里江の新しい世界が見えるのだ。


(愛知県教育振興会「子とともに ゆう&ゆう」2019年度1月号掲載)


自分の作品のキャラをモデルに使うという、とんでもない(?)試みをしたのがこの作品です。わかる人だけわかってください、というある意味マイナーなキャラなのですが。さすがに「同じ名前」にする勇気はなかったし、セリフ回しも違います。あくまでもモデルですから。

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