23年前のブルペンキャッチャー
暇を持て余した休日、私はインターネットを色々と検索していくうちに面白いものに出会った。それは大学野球の事で、私の所属していた大学野球連盟という余り世間からは注目を集めないリーグの公認的なサイトだった。それそのものは以前も見た事があったが、それ以上に面白かったのは、そうして私自身の色々な事を思い出させた。
そのサイトを運営している管理人が個人でやっているホームページだった。そのホームページを色々と辿ると、どうやら大学野球には相当管理人さんは精通しており、また実際にお会いした事もある人物であって、親近感を覚えた。更に注目したのが、私の大学は私が大学二年生の秋季リーグ戦で二部リーグから一部リーグに昇格したのだが、その時の様子と、何故今迄実力のある先輩方を持ちながら、ずっと一部に昇格する事が出来なかったのか、その様子がこと細かに書いてあった。実際在籍していた私よりも詳しくその様子が書かれていたので、思わず驚いてしまい、ついつい時間を忘れてそのホームページの中にある文章に見入ってしまった。
私は思わず自宅のパソコンを前にして、自らの苦しかった、けれども楽しかった、そんな時代にタイムスリップしてしまった。
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その時私は大学二年生。野球部と柔道部を掛け持ちしている、野球部にとっては余り有難くない存在だった。柔道部は黒帯の数が少ないから半ば義理で参加しているようなものではあったが、それなりに力は入れていた。後に修斗ボクシングで日本選手権にも出た先輩と乱取りを組む時など、野球部で見せる顔とは全く違い、牙を剥き出しにする柴犬の如く、小さな身体全部に力を漲らせていた。それでもいつも軽々と、身長185センチの先輩に投げ飛ばされていたのだが。因みに私は身長165しかない。けれども本腰を入れていたのは野球の方。柔道は飽く迄助っ人。柔道部の仲間からは野球なんてやめちまえ、どうせレギュラーになれんのだから、と言われていた。
それに恐らく学校イチの美人が何故か柔道部に居て、一年前、確かにその美人と学部が一緒だった事もあり、同じ授業を受ける事も多く、一緒に練習場に出向く姿を多くの人は見ていた。その美人からも柔道部にちゃんと入りなよ、と言われていた。野球部の先輩方も見ていたらしい。最終的にはその美人に私は振られたのだが・・・・・・
そんな周りの誘いを断り、野球部に私は執着していた。理由は高校の時みたいに、野球を失う事だけは嫌だった。別にレギュラーでも無ければ、人数さえ多ければ今の補欠の位置すら危うい、そんな存在であっても野球部に居られる事の方が私には価値があった。それでも当然球拾いばかりやる事になっていたし、ライトのポジションには甲子園常連校、日大藤沢出身で足のケガさえなければメンバーとして甲子園の土を踏んでいた、と言う一年からレギュラーポジションを獲得した同期が居た。いつも私は二番手、三番手の補欠。だから半ば腐り始めていた私は自分の、今の居場所が何処なのかを、改めて真剣に探していた。雑誌編集のアルバイト?いいや違う、柔道?いいや違う、文学研究?いいや、それも今は違う、結局当時の私には野球しか無い。例え下手糞であろうとも。
そう思いながら、それでも迷いながら毎日の練習と授業とに明け暮れていた。そんな中、私に声を掛けてくれた先輩がいた。チームのエースで何故か私とキャッチボールをしたがる。この先輩は本当に面倒見のいい先輩で、誰からも好かれる、本当に「普通のイイ人」であった。この「普通のイイ人」とは実はサイト内でそう呼称されているからそう書かれている。本当にピッタリだ、とも思えるような呼称である。更にサイト内の表現をそのまま借りるとすれば、普通に私服で歩いていたら、確かに野球部のエースだとは判らない、そんな大人しく優しそうな、見るからに善人、中身も超善人。この先輩は私をよく可愛がってくれて、普段のキャッチボールの相手に私を選んでくれたのだ。何故なのか、先輩に理由を尋ねると、
「お前が相手なら緊張しなくてすむ」
という理由だった。当時は理解出来なかったが、確かにそうだ。20年以上たった今なら判る。
この先輩は一学年上に元作新学院のエースの大先輩が居た。同輩には後に中日で活躍した井端選手と堀越で共にされた方も居た。そうしたスタープレイヤーに囲まれて、三年間を過ごしたのだ。因みにその先輩が井端選手から貰った、と言うルイスビルスラッガーのグラブを、私の同期がポジションが同じ内野だから、と言う理由でその先輩から貰い受けていた。がっつり親指の刺繍には「井端」と入っていた。しかし、チームはそうしたスタープレイヤーを以ってしても一部に昇格する事が出来なかった。いつも二部止まりの苦しい立ち位置。二部で無双しても一部には上がれない、それが私の大学。また、この先輩も、今思えばどうしてもその偉大な先輩や同輩の影に隠れていたのだろうか。だから当時一年生だった私が見てもどことなく遠慮がちな雰囲気は否めなかった。それでも最上級学年になり、エースにもなった。しかし最下級学年の一年生に、また作新学院のエースだったピッチャーが入ってきた。他にも2人、中々のピッチャーが入ってきた。私たちの学年にピッチャーが一人も居なかったから、丁度良かった。だから気も抜けない状況である事は間違いなかっただろうし、四年生で最後の大会、当然悔いは残したくなかっただろう。
そんな方から直接お声掛けを頂き、最終的にはシーズンを共に最後まで過ごす事になるのだが、色々と状況を理解し始め、私は私でその人の為に出来る事は何だろう、と真剣に考えた。
居場所はひょっとしたらここかも知れない、と実感出来た瞬間だった。そう思えた瞬間から、キツい補欠の立場であってもとても楽しかった。一緒に普段からキャッチボールをしているだけでも、その先輩から学ぶ事も多かった。コントロールの付け方、腕の振り方、肘の出し方、体の使い方。その方はヤクルトで活躍したセーブ王、現在のヤクルトの高津監督のようなサイドスローで、高津監督の代名詞、シンカーもそのまま真似ていた。ただ、カーブ・シンカーの多投で先輩の肘は既にかなりパンパンの状態。その様子を見た私は練習後のマッサージを買って出た。一応、柔道をしている事から整体の知識も多少は当時からあり、また自分自身も野球肘でリハビリを実際に受けてどこをどうすれば肘の一時的な痛みは止まり、投げられるようになるのかを知っていたのでそれを先輩に伝えた。どうストレッチをして、どうやってケアすればいいか、等。
春はボロボロだった。毎年うちの大学は春が弱い、それが代名詞だったのでやむを得ない。それより秋、秋のシーズンに全てを賭けよう、とチーム全体がなっていた。そして苦しい夏合宿、沢山の対外試合を終えて秋。先輩は大車輪の活躍を見せ、リーグ制覇。
入れ替え戦に向かう時、この先輩は私にかけがえの無いアドバイスもしてくれていた。それは、
「お前、絶対野球部を辞めるよ。お前自身はこれからもレギュラーを獲得出来る見込みなんて無いからつまらないかもしれないけれども、俺だってそうだった。ずっと先輩の影に隠れていて、四年になった今、ようやっとこうして投げられるんだから。お前だっていいカーブ持ってるじゃないか、いつか花が咲くかもしれん。我慢していたらそのうちイイ事あるって。だから辞めるなよ」
確かにこの先輩に言われると説得力がある。二部で燻っているようなチームには勿体無いような、野球に於いては超一流校のエースを張っていた人、三年間、その人の影に隠れている自分を自覚しながらも、腐る事無く最後の最後でエースのポジションと、過去の先輩同様にリーグ制覇を果たした。その立役者となった先輩だからこそ、より説得力があった。そうして最後の試合に向かって、喜んでこの人の球を受けていた。キャッチャーミットでは無く、音の鳴らない普通の野手用のグラブで。
普段の練習でもキャッチャーミットを誰も貸してくれない。何故なら私のような下手糞が使うと変な片がついてしまい、実際に捕手として使う同輩が使いにくくなる、という理由だった。だから普段の練習でフリー打撃などを行う際も、私は自分の野手用グラブでキャッチャーをして、そうして二年生になった時から、この先輩の球を受けていたので、もう芯の部分に穴が開いてしまい、硬式用とはとても思えない程、グラブはクニャクニャになっていた。更にそんなグラブで先輩の速球をずっと受け続けていたので私の手は腫上がり、何度つき指をしそうになったか判らない。それでも球を受けていた。幸い一度も致命的なつき指をしなかったのは普段柔道で指先を鍛えているからだと思った。道着の袖を握るにはそれ相応の握力が必要で、握力とともに指先に力を込めないと駄目、更には柔軟な動きも必要。
だから意外な所で柔道が役に立っており、それ故に柔道も辞められなかったのだ。いくら非難されようが。
そうしてその先輩と私が最後のキャッチボールをしていた時を今でも私はハッキリと覚えている。その様子はリーグホームページを作成されている管理人さんの個人ホームページにも書かれていた。
3-0で迎えた8回裏、集中打で2点を取ったうちの大学は、更に満塁のチャンス、そこで7番に座っていた一学年上の先輩が打席に立ったその3球目、パコーン!と鈍い音を響かせたその打球はフラフラフラとレフトの頭上を越えてスタンドイン。スタンドと言っても普通の大学構内にあるような単なるグラウンドに網を張ったものだから本格的な野球場とは違う。それでもルールに沿ってコールド勝ちを収めた。
試合終了。何だか呆気無い幕切れだったのだが、私は登板を命じられたエースの人と最後のキャッチボールをしていた所だったのだ。監督がこのまま進めば勝つから最後は最上級生であるこの先輩にマウンドを託して胴上げ投手にしてやりたい、という配慮からの登板命令だったのだ。けれども10対0のコールド勝ちで試合は終了、それと共にこの先輩と一緒にやるキャッチボールもこの瞬間、終りを告げたのであった。その終りの瞬間を私は管理人さんのホームページの文章を読み進めていくうちに再び感じた。あの時、私はあの先輩と一緒にキャッチボールをしている瞬間が最も楽しかったのだ。管理人さんは「呆気ない幕切れだった」と書いているのだが、確かにそうだろう。私も呆気ない、と思った。最後に先輩が投じたストレートは、本当に速く、力の篭った球だったが、沈む夕日を眺めながらこれでもう、この幸せに満ちた時間はお終いなのだ、とただ呆然と立ち尽くしていた。皆が大喜びするのを見ながら。
その後は定番とも言える麦酒掛け。OB会会長の大沢先輩が、会社の経費で落としてくれた麦酒数十ダースを一気に掛け捲る。缶もあれば瓶もある。麦酒掛けはこれで三度目だが、私は大学生活、並びに今に続く草野球生活の中で麦酒掛けをしたのもこれが最後だった。近くにシャワー施設など無い試合会場裏手で麦酒掛けなんてしたモンだから、帰りは皆、頭が麦酒でカピカピになってしまい、麦酒を飲んでいない、麦酒掛けにも参加していない先輩に車を運転して貰ったのだが、車内は麦酒の臭いで充満していた。そうして変な悪寒も込み上げてくる。二度目のビール掛けで理解していた独特の悪寒である。麦酒のアルコールで身体は火照っているのに、何だか寒い。車内ではずっとエアコンの温度を高く設定していた。
悪寒に震えながらも、車に積んだ野球道具をその日のうちに片付けて帰宅し、そうしてすぐさまシャワーを浴びた。シャワーを浴びながら私は、この一年間を振り返って、思わず涙してしまった。もう、二度と先輩とはキャッチボールは出来ない。
この先私は何を心棒として、野球をすればいいのだろう・・・・・・
それから二年。私は大学四年間の野球部生活を終えた。そうして辞めていく私達に後輩の計らいで、一人一人に一言を書け、それをアルバムとして作るから、と言われて私はこう書いた。
「見込みが無くとも野球を辞める必要は無い、と先輩に言われた事は今でも心に残っています」
と。少しだけキザったらしく。
私は管理人さんのホームページを見てそんな事をしていた自分を思い出した。平気で何度も会社を辞めて、それでも続けているのは草野球。43歳になった今、ベテラン投手として草野球歴20年、学生野球よりも草野球歴の方が遥かに長くなって、課題だったコントロールに対しても一定の評価は受けるような投手にはなった。しかしただそれだけの人間。
あの時先輩に言われた「辛くとも辞めるな」その事は、野球の事だけでは無い、辛くても逃げるな背を向けるな、と言う言葉だった、・・・・・・と今更ながらに気付かされた自分が少しだけ情けなくなってホームページを眺めながら、緩んだ涙腺が止まらなくなっていた。
※本文中のHPはこちら。
http://www.yozonet.com/tokyoshin/
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