「人格バランスの崩壊」が生んだ潤羽るしあ騒動について
Vtuberに関して、キャラと中身の区別をつけるってめちゃくちゃ難しいよな、っていう話。
自分でもまとまりきっていない考えをまとめるために書いている文章なので、支離滅裂な結論になるかもしれない。
ちなみに私は誰のガチ恋勢にもなったことは無いし、多分これからもならないんだけれど、自分がいる場所からガチ恋勢がいる場所までの隔たりってそこまで大きくないのかもしれないと思った。
騒動について簡単に
端的に言えば、ホロライブ所属のアイドルVである潤羽るしあが配信中に男性からの個人的な連絡を画面上に写してしまい、交際しているのではないかとか、同棲しているのではないかという憶測が方方から上がったのが発端。
そのVは日頃から、「男性が苦手」「リスナーに依存する」など、いわゆる「ガチ恋に優しい」スタイルを取っていたために、当該Vのファン(と、恐らく少なくないアンチ)が特に過剰に反応した。裏切られたとか騙されたとか、そんな反応が多く見られる。
「人格バランス」の理想と現実
「全部演技に決まってるじゃん」
「二次元キャラと中身を同一視することは異常」
「現実と虚構の区別がついていない」
いわゆるガチ恋勢に対して、こんな批判が浴びせられるのをよく見る。でもこれって、多分今Vtuberを見ている人はガチ恋勢以外を含め全員に言えることなんじゃないの?って思う。
ここでいう「同一視」というのは、中の人も潤羽るしあと同じように、男性が苦手で、寂しがり屋で、でも惚れっぽい、どういうわけかオタクに受ける性質ばかりを持った人だと思っているということだろう。
「君しかいない」だの「みんなのこと愛してるよ」だのといった言葉が本気ではないことくらいはもちろんわかっている。多分、ファンの多くもわかってスパチャを投げている。
もし、完全にすべて演技だと思って見ている人が多数派だったなら、キズナアイの分裂も、ゲーム部のキャスト変更も受け入れられていたはずなのだ。特にゲーム部に関して言えば、動画のほとんどはフル台本のアフレコ(またはプレスコ)だったわけで、魂の余地なんてほとんどなかったのにも関わらずあの有様である(勿論、交代の背景の事情も多分にあるが)。
つまり、魂の部分と演技の部分を無意識下で識別している。魂(素の人格)と演技とのバランスの受け止め方に個人差があり、その割合がどれくらいなのかという点が、ガチ恋勢を生むかどうかの境界なのかも。
今回の騒動はというと、「多くの人が勝手に抱いていた演技成分の割合」と今回起きてしまった事故によって発露した「本当の演技成分の割合」とのギャップが大きすぎたために、大きな衝撃を与えたと言える。
「理想と現実」という表現もできるかもしれないけど、その「理想」に「現実」がどれくらい混ざっているのかが図りにくいというところが、V界隈の魅力でもあり、リスクでもある。
筆者の場合
私はというと、今回の件についてはそもそも推しでもなんでもなかったので特に何も感じていない。
ただ、基本的にVtuberのことは生主の延長として見ているところがあるので、総じて演技の割合は少なく見積もってしまっていると思う。
例えば、卯月コウが実はめちゃくちゃヤリ○ンのファッションオタクだったとしたらとんでもない衝撃を受けるはず。陰キャだから見てるわけでもオタクだから見てるわけでもないので、それはそれで受け入れられるかもしれないが。
つまり?
何が書きたいのかわからなくなってきた。
要するに、今回の騒動で発狂している人を見ると、頭がおかしいとか、それくらいわかってただろと思っている人が大半だと思うけど、自分だって全然予想外のところから殴られるかもしれないのだから、あまり責めるものではないよ、ということが言いたかった。
当たり前のことを長く書いただけだなーと思ったけど、もったいないので上げます。
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