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「共感」を脱せよ。



昨今の三島由紀夫ブームで、

「若者が共感」

との言葉をしばしば眼にする。

しかし、文学の最も尊ばれるべき点は、

"「共感できない」人や物を理解すること、
その先に共存の可能性を見出すこと、"

ではないだろうか?


「若者が共感」という言葉一つに、

"日本の読者、殊に若者は、作品の鑑賞に共感を求め、価値判断すら「共感できるかどうか」に委ねているだろう。"

といった憶測が見えてくる。

しかし、「共感ができるかどうか」がそれほど重要なのだろうか?

私は、文学や音楽、映画、その他の芸術作品こそが、

"「共感できるかどうか」の二元論で語ることの危うさ"

ほぐし、柔軟な思考へ再構築させる手伝いをしているのではないかと考える。

即ち、芸術作品は包容力と理解力を涵養するためにある。

人智を超えた世界との出会い、初めて見聞きする文化など、未知のものに出会えたときに、それを受け入れる包容力、
自分の意見とは相容れないものであっても、「新しい価値観」として排斥せずに対話できる理解力である。

「共感」が作品の核に存在することはあるだろうが、あたかもそれが全ての価値判断の基準であるとすることに私は同意しない。

例えばオーロラや虹など、壮大な自然現象を目にした時に、

「何と言ったら良いかわからないが、崇高なものを感じる」

といった心境、これが元に詩歌や絵画が創作されることもある。

これは共感ではない。「畏怖」である。
もしくは「感動」といえば良いかもしれない。

これが文学にも当てはまらないわけがない。
三島を読んだ若者が、

「何と言えば良いかわからないが、好きだ!」

となることだってある。
それは共感ではなく、畏怖、敬意、挫折、脱帽、熱狂、崇拝といった感情かもしれない。その人次第でいくらでも形容できよう。

三島の研ぎ澄まされた日本刀のような文章に共感するのは勿論である。私自身、彼の卓越した比喩表現には幾度となく感嘆している。

しかし、その周囲に広がる感情の列宿を闇夜に葬り去り、一際輝き目に留まる「共感」という言葉に心を集約してしまうのは愚かではないだろうか。
我々は一つの星を以て「星座」と呼ばない。

また、2000年代〜2010年代には、若者を中心に話題になった曲を称賛する際、この「若者が共感」は多用されてきた。
話題になる曲は「共感」があるから話題になるのだと、洗脳するかのような頻度でこの言葉を浴びせられてきた。

最近はSNSにより棲み分けができ、以前よりも聞かれなくなったようにも思われるが、それは同時に「共感の素晴らしさ」を喧伝していたテレビ業界の衰退の影響もあるかもしれない。

そして現在、テレビ朝日系「関ジャム 完全燃SHOW」という、「共感」だけではない音楽の素晴らしさを伝える番組が話題になっている。

以前の番組中、私の記憶に残る言葉が一つあった。
「今は音楽を自己表現として用いる人も多いが、彼女たちは音楽に憧れ続けている。」

この言葉が日本の音楽番組から出るのは、音楽をはじめ、芸術の世界に対し極めて大きな進歩である。

この影響が文学や映画の世界にも繋がるべきである。
共感を経由せずとも、あらゆる作品は楽しめると多くの人が気が付くべきではないだろうか。

それが叶えば、日本の文化はより一層豊潤になり、上質な文化が継承されるに違いない。
共感のみでは文化は育たない。
文化が育たなければ、人間も育たない。

芸術に触れることの大きな収穫は、「他者」と出会うことである。

他者はいつも共感を与えてくれるわけではない。人生の悩みの、そのほんどは人間関係だと言われるくらい、他者は我々に多大な影響を与える。

そんな他者という存在を、「共感」というたった一片の感情に代表させるのは些か疎かではあるまいか。

この価値観が広まり、「共感」の一点張りで価値判断をしない世の中になれば、ゆくゆくは、

「共感はできないが、共存はする」

といった思想を人々が持ち始めるだろう。
これは芸術作品以外、即ち、人間関係に現れる。

「自分とは相容れない地域の人、異なる思想を持つ人」

と出会ってたとしても、彼らを排除せずに共存することを覚えるからである。

「共感」のみを以て価値判断を下せば、排他的になる。
共感できないものと共存してきたからこそ、それが思わぬリスクヘッジにもなり、この地球はホモ・サピエンスが繁栄していると言って良い。
排他的な伝統芸能が衰退するように、排他的な国家は衰退の一途を辿るであろう。

現在の日本のあらゆる読者、あらゆるメディア、あらゆる鑑賞者に必要な力は、

この、

"「共感」に頼らずに作品と向き合う力"

である。

ソーシャルメディアで共感ばかりを求めていたら気付かぬ間に排他的になるかもしれない。

諸君は今こそ共感の沼を脱し、不調和や違和感に飛び込むべきである。

そしてそれらを抱えたままこの世界との共存を試みようではないか。