見出し画像

ソールライター展2020に感じた違和感

去年の1/14の日記に、
「ソールライター展に行ったが、私には響かなかった」
と書いてあった。

2017年に一度、渋谷BUNKAMURAミュージアムで彼の写真展が開催され、それが2020年のはじめにアンコール開催をされたわけだが、尊敬する写真家の一人に彼の名前を挙げるくらいにファンである私は前回同様、期待して会場に足を運んだ。
展示の内容、規模感、前回好評を博したからか大量のグッズ、どれも良かった。
しかし、残念だったと言わざるを得ないことがひとつだけあった。それは壁に書かれた彼の一つの言葉であった。

「面白いことは身の回りで起こっている。」

壁に大きく書かれたこの言葉は、当時の私に違和感と、ある種の落胆を与えた。

当時は上手く言語化せずにそのまま日が経ってしまったので、改めてここにそれを書いてみようと思う。


以前から度々言うように、私は"TOKYO"が苦手である。その景観、音、物語、文化、主義が苦手である。諸行無常の感性を刹那主義に変換し、欧米化による拝金主義、効率主義と合わさった、美学も論理も大局観も持たないこの醜態を"COOL JAPAN"などと誇らしげに売り物にしている姿は、私の日本人としてのアイデンティティを甚だ傷つける。
そして渋谷はその文化的中心地である。
私はそこで、この言葉を目にした。

「面白いことは身の回りで起こっている。」

外で何か面白いことが起こっているのなら、そもそも私はここに足を運ばない。日々の喧騒の中に色彩を欠いていくTOKYOの生活で自らに色彩を取り戻すべく、私はこうして美術館に来たのだ。しかしこの言葉が、壁の外にある"渋谷"という街を鮮明に意識させた。「外に出ればまたあの日常が戻ってくる!」。この時点で陶酔は消え、私の頭の中では外の喧騒が鳴り響いていた。

私は言葉そのもの、ましてやソールライターを非難するわけではない。視点を変えることで世界は美しくも惨めにもなり得るのだから、それを写真家が言う意義は理解できる。彼は非現実を創作するのではなく、現実に新たな見方を発見する人だった。
しかし、美術館側があの言葉を掲げることは、「外で起きている現実を追認すること」を要求しているようなものである。この"とりあえずなんとなく雰囲気で"造られたTOKYOを認め、享受するのだ。と要求しているようなものである。

……と、当時の私は思ったのだろう。


一年たった今、私はこの違和感が、自粛期間中に見た画像への嫌悪感と同じものだということに気が付いた。



私はこの画像に否定的な立場を取っている。「学びのゾーン」「成長のゾーン」のように、個人のうちに幸福を求めるのは結構なことである。しかし、社会の幸福と個人の幸福が密接であると信じ、今の社会に対し意義を唱える人を「恐れ」だと切り捨ててしまえば、その社会が発展することは望めないだろう。権力者たちに対し常に鋭い監視を置くことが民主主義なのであって、それを放棄するような言い回しに私はひどく嫌悪感を覚えた。

ソールライター展の壁に書かれた言葉は、この画像が私に与えた落胆とほとんど同じだと言って良い。
「面白いことは身の回りで起こっている。」つまり、「見方を変えれば身の回りは面白い」というメッセージを発信するだけでは批評性は育まれず、社会は変わらない。「面白さ」は残酷なもので、個人の喜びには大きく貢献するが、社会問題から人々の目を背けさせるために使われることも多いのである。
芸術家の仕事は「既知の面白さを認める」ことではなく、「未知を面白がる」ことにある。つまり「問題を提起し、批評する」ことである。
そして美術館は芸術家の側に立つべきである。
それが人と社会を発展させる要だと信じて。

ソールライターは写真家、そして禅の愛好家ということもあり、彼自身「自分に哲学はない。あるのはカメラだけだ。」と発言している。
壁に書かれたあの言葉はそういった彼の人間性から出ているごく自然な言葉ではあるが、わざわざありがたがって壁に書くような至言ではない。ましてや、社会に批評性を育むべき美術館が選ぶような言葉ではないと、私は思わずにはいられないのである。

────────────


再度書くが、私はソールライターのファンである。彼の写真展があればまた必ず行くつもりだ。
もし万が一ソールライターの写真を知らずにこの記事を読んだ方がいれば、彼の写真は必ず見てもらいたい。匿名性の高い被写体を用いた作品は視覚的に美しいものばかりである。