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『ぼっち・ざ・ろっく Re:Re:』に寄せて

 総集編の映画の公開に合わせて、というか、アニメが放送/配信されてからずっと、25年以上続いているアジカンの古い楽曲や歴史を追ってもらえて率直に嬉しい。結成から一度も止まらずにバンドは転がり続けているけれど、ポップミュージックはユースカルチャーとしての側面もあるから、当時の中高生や同世代と共に俺たちも年を重ねて、アジの缶詰なのか密教の瞑想法なのか、誤解や興味の端っこはおろか若い世代に発見されなくなっていくのも仕方がないことだと思う。

 しかしながら、前述したように、バンドも俺たちの人生もアラフィフなりに全力で転がり続けていて、有名になりたいという欲求はもともと薄いけれど、音楽を聴いてもらいたいという気持ちはいつでもしっかり持っている。ネットには配信サービスによって無限と呼んでもいいくらいの楽曲の海が広がっていて、そこには毎週数千曲の新曲がアップされ、過去の膨大な名曲たちをいつでも聴くことができる。自分たちに興味を持ってもらうことは至難の業だけれど、「ぼっちざろっく」によってもたらされた新たな出会いや再会は本当に多いと思う。

 作品にも感謝しているし、新旧問わず、僕らの音楽を気に入ってくれたひとたちに伝えたい。どうもありがとう。

 さて、このような注目を自分たちだけに集めて「幸運だったね。ラッキーだね」と回収するのは、なんだか少し居心地が悪い。自分が音楽の現場でやってきた活動とも噛み合わせが悪いような気もする(例えばNANO-MUGEN FES.とか)。なので、「ぼっちざろっく」を経由してアジカンだけでなく音楽に興味を持った人たちが、その場所だけに留まらず、いろいろな作品やアーティストに出会えるようにレコメンド記事を書きたいと思う。

 現在より10年以上前。2010年代が進むにつれて、グローバルな音楽シーンでは少年たちがギターを取る機会がグッと減ったような感触があった。世界的にロックの人気は下火になって、特にインディロックは苦戦していたと思う。ラップミュージック全盛。けれども、アメリカのインディロックは女性シンガーソングライターが百花繚乱といった感じで(バンドも然り)、チェックするのが楽しかった。どういう理屈でそうなっているのかはわからないけれど、とにかく素敵なレコードがたくさんあった。

 ぼっちちゃんのような内向きな人が現実にバンド結成や加入にまで辿り着くのは、コミュニケーションの部分で大変なところがあると思うけれど、楽器があればひとりだって音楽ははじめられる。それはもちろん、ラップトップのPCでも。それは、ささやかだけど確かな希望だなって思う。その延長線としてPhoebe BridgersやWaxhatcheeを紹介するのはどうかと思うかもしれないけれど、きっと彼女たちも、たったひとりの場所から音楽を生み出してきたのだと思う。

 姉妹がはじめたバンドだけどHAIM。姉妹や兄弟と音楽をやるだなんて、とても素敵なことだなと憧れてしまう。彼女たちからは、いわゆる男性優位社会のエンタメ界に新しい風を吹かせるような反骨心を感じて、サウンドも姿勢もクールだなと思う。

 Girlpoolのこの曲はとても感動的だ。自分の性分や身体と精神の齟齬を呪うような表現のあるMVだけど、ちゃんと救いがあって、何度見ても泣きそうになるし毛穴がキューッと収縮する。「自分はモンスターなのかもしれない」みたいな、誰にも言えない個人的な悩みを音楽は包んでくれる。俺はどこにいても疎外感に悩むような少年だったけれど、音楽だけは俺を除け者にしなかった。誰にでも開かれていた。しかし、この曲は本当に、誰をも抱きしめるようで美しい。

 日本のバンドやアーティストもいくつか紹介したい。あまりニュースにはならないけれど、海外で活躍するバンドも増えている。最高だと思う。結束バンドや、彼女たちに憧れてバンドをはじめるひとたちが、彼らの轍を少しでも辿るような未来があるのだとすれば、本当に素敵なことだ。

 MASS OF THE FERMENTING DREGSは何のタイアップにも頼らずに活躍の場を世界に広げている。アメリカツアーもフルハウスだと言う。黄金期を更新するような活動は本当に、長くバンドを続ける人たちにとって希望そのものではないかと思う。もちろん、俺にとっても。おとぼけビ〜バ〜の大活躍も素敵だと思う。デイヴ・グロールがステージ袖から彼女たちの演奏を眺める画像をネットで観て、嫉妬するかと思いきや心の底から感動してしまった。彼女たちがグラストンバリーのパークステージ(俺が行ったときにはパンク詩人などもパフォーマンスしていた)にブッキングされた理由は、楽曲を聴き歌詞を読めば分かる。

 CHAIの解散は残念だった。しかし、その登場自体が希望そのもので、随分と俺たちを生きやすくしてくれたと思う。コンプレックスは魅力なんだと彼女たちは教えてくれた。そういう考え方は、今ではスタンダードになりつつあると思う。簡単なことではないかもしれないけれど、お互いを認め合って、みんな胸を張って自分らしくあったら良いなと思う。

 本当に書ききれないくらいの素晴らしいバンドやアーティストが世の中にはあって、全部綴ったらそれだけで人生を使い果たしてしまう。一生かかるくらいの量だ。今後もAPPLE VINEGARのポッドキャストやラジオでも紹介し続けるので、時間があったらチェックしてほしい。

 自分がこれまでに関わったバンドについても最後に書こうと思う。

 チャットモンチーはひとつの時代の象徴だったと思う。チャットモンチーの登場と活躍は後続のバンドにとってとても大きくて、もしかしたら結束バンドの音楽まで、その流れは繋がっているのではないかと思う。彼女たちはいつも「ナメられてたまるか」とファイティングポーズを取っていたように感じる。それは、もう本当に、俺もその一部で反省し続けているけれど、音楽業界が男性優位の社会だからだと思う。クソのようなアドバイスというか、マンスプレイニングみたいな態度や慣習と戦い続けながら、音楽では決してそう見せないところが格好良かった。

 けれども、そんなものと戦うことにエネルギーを割かなければいけないことは損失だと思う。俺はそうした損失を与えている構造の側のひとりなので、そうした現場をひとつでも減らしたい。ただ、誤解なきように書くと、俺が参加した制作現場はとても楽しく、彼女たちの自由な発想に驚かされ続けた時間だった。とても勉強になった。現在や将来にチャットモンチーのようなバンドが新しく生まれてくるならば、おっさんたちが偉そうに踏ん反りかえるような場所は絶滅させて、世界の果てまで突き抜けられるような環境を大人のひとりとして用意したい。そういう努力は死ぬまで続けたいと思う。

 最近のyonigeは健康的に見えて、姿勢が自然で素敵だなと思う。俺と一緒に仕事をしたときは、スタッフが求めるyonige像と自分たちのやりたいことの間で引き裂かれている感があって、バンドとしては難しい時期だったんじゃないかと思う。どんなに楽しくはじめたバンドでも、いろいろな局面が訪れる。結局、やりたいことを見つけて、それを成し遂げることが一番じゃないかと思う。売れる売れないは生活に直結するけれど、元を正せば、音楽を商売にしようと思ってバンドをはじめたわけではない。俺も彼女たちも、ギャーン!と楽器を鳴らして、なんだか叫んでみたいような気分だっただけかもしれない。商品でも高尚な何かでもなく、当時に抱えていた一切合切はずっと持って歩いていきたい。

 しかし、なんだこのビデオ。笑。

 別にそれがロックな必要は、はっきり言えばないと思う。

 ただ、バンドは楽しいよ、と伝えたい(きっとHIP HOPのクルーも、みんなで音楽について語らうような集まりも楽しい)。

 音楽は、普通だったら仲間になっていなかったかもしれない人と自分を繋いでくれることがある。考え方も生まれた場所も信じることも、何から何まで違う他人と、好きな音楽では一致したりすることがあるから不思議だ。小1時間一緒に踊れたりもする。アジカンのメンバーとだって、バンドを組まなかったら、音楽をしていなかったら、こんなにも親密になれたとは思えない。まわりを見回しても、普通には出会わなそうな人ばかりな気がする。

 音楽が特別に偉大だなんて思わないけれど、音楽に込められた様々な感情が、仲間たちと合奏したときの高揚や多幸感が、多くの人の生活や人生を少しでも自由で豊かなものにしたらいいなと思う。かつての俺が音楽に救われて、自分らしさや仲間を見つけられたように。

 追伸。
 結束バンドver.はイントロから、ムスタングとか路地裏のうさぎとかバイシクルレースとかを思い起こすような、いろいろなアジカン的な要素が詰め込まれていて感激した。三井くん、どうもありがとう。