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軍人がユニフォームを着るのは、もう個ではなくなるためだ。

 美術館で本を買うのが好きだ。図録も好きだし、作品に感動したら著作を買ったりもする。クリスチャン・ボルタンスキーの展示からは感じるものが多かった。壁中に吊るされた衣服、堆く積まれた黒い服。抜け殻のような、誰かが生きた証。あるいはかつてあった暴力の爪痕。その前で足が止まるのは、在るべきものがそこにはないからだ。ホロコースト、戦争。生と死と人間の愚かさが浮かび上がる。

 以下は、『クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生』というインタビュー集から。

 でも僕が驚くのは、こうしたイデオロギーが、特に悪人でも何でもない人間が作り出したものだということだ。ノーマルで思慮分別もあり、子供を可愛がる人間が、善の名の下に何百万人という人を殺すことができる。そして怖いのは、これは人間性のカリカチュアみたいなもので、誰にでも起こりうるという点なんだ。

(中略)

  そういうものなんだ、人間っていうのは。朝一人の子供を救って、午後に別の子供を殺すことができる。

クリチャン・ボルタンスキー
カトリーヌ・グルニエ 著
佐藤京子 訳
『クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生』

 どちらも、ナチスについて言及した箇所から引いている。

 僕がやっているのは常に不在によって存在を示すこと、不在を映し出す鏡のようなものなんだ。「そこに誰かがいた」ということ。写真も同じだ。存在は同時にその主体の不在にも繋がっている。僕は様々な物体(オブジェ)を見せることで、その主体(オブシェクト)の不在を表現しようとしてきた。ある時期から僕は物体と主体の関係にとても興味を抱くようになったんだ。理由は様々だが、特に人間の犯し得る最大の犯罪は殺すことではなくて、主体を物体に変えてしまうことだと思っているから。軍人がユニフォームを着るのは、もう個ではなくなるためだ。軍服を着た途端グループの一部となって、交換可能になり、殺すこともできるようになる。同じように、お年寄りの紳士たちがオペラ座の可愛いダンサーを見るのが好きなのは、主体が物体に変えられたところに性的興奮を感じるからだ。

クリチャン・ボルタンスキー
カトリーヌ・グルニエ 著
佐藤京子 訳
『クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生』