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ドサクサ日記 4/22-28 2024

22日。
春フェスのリハーサル。夏は出稼ぎ、秋からツアー、みたいな行程がバンドマンのルーティンとなって久しいけれど、夏は夏でとても暑くて、雨さえ降らなければ春こそがフェスには最高かもということが浸透したのか、春先からGWくらいまでについても出稼ぎ期間に認定された。梅雨の期間はさすがにあまり野外イベントがないけれども。年がら年中、そこらで音楽フェスがあって、すごい時代だと思う。

23日。
潔加入25周年とデビュー20周年を記念したライブの告知が始まった。シンプルにとても楽しみにしている。10周年は横浜スタジアムだから、会場が狭いという言葉には頷きつつ、我々の音楽業界内の政治力の低さについて申し訳なさを抱えつつ、それでも与えられた場で、素敵な空間を参加してくれる人たちと一緒に作れたら嬉しいと思う。リクエストも募っているので、演奏のスコアを作り直さなければいけない曲もあると思う。随分と演奏していない曲と改めて出会う感じがして面白いし、発見がたくさんある。1位から順番に演奏するというわけではないけれど(コンサート定番曲もリクエストには含まれているし、演出上の流れも大事だし)、投票結果を透明にしつつ、多くの人の「レア曲も聴きたい」が叶う日にしたい。個人的に3曲投票するならば、ネクスト、タイムトラベラー、雨上がりの希望かな。

24日。
ラジオ収録でJの波へ。長井さんと永井さんにあった。ダブルナガイだなと思いながら、六本木の巨塔から街を見下ろすと、そこは完璧にアジアで、完膚なきまでにカオスな東京だった。大阪や京都は賽の目で理路整然としている。空から見たブエノスアイレスもそうだった。しかし東京は無秩序に見えて、ビルの合間から温帯ならではのタフな感じの樹木が顔を出している。特に夏の前は樹勢が強くていい。

25日。
最近は脂っこいものを食べると、どんなに使っている揚げ油が良くても胃がもたれてしまう。豚骨系のギットギトの脂はもたれる、みたいな状態で体調が留まることなく、ほとんど自傷なのではないかと思うくらい、腸の調子が乱れる。分かってはいるが、どちらも美味しいので控えるのは難しい。が、心を鬼にして、饂飩屋で天ぷらを皿に盛ったり、脂ギトギトラーメン屋に突撃するのを控えることにした。

26日。
スタジオで作業をブリブリと行った。ミックスの途中で半田ゴテを使ってケーブル製作。TRS-XLRメスというケーブルを作ったのだけど、どう考えてもしっかり配線できたはずなのに、チェッカーでは混線しているような灯りがほのかについてしまう。これはザオラのプラグが少し太いからではないかと疑っている。作業をしながら、BUTAI公演についてのインスタライブを勝手に配信した。みんな来てね。

27日。
静岡県は藤枝市でライブ。もう音楽だけやっとけや、という言葉はいつでもいただくが、本当に音楽のために働くことにした。音楽とは言っても、音楽という言葉が指す範囲は広く、もう少し言葉の範囲を絞って「バンドをしている人たち」と言い換えたほうがいいかもしれない。しかし、俺が仲間たちと企画するスタジオや施設に連なる人たちは、音楽に留まらず広くいろいろな分野とつながりを持って、地域とか、音楽にまつわる場所を豊かにしてくれると信じている。スタジオへの想いはまたいろいろなところで何度も伝えたいが、とにかく「自由に失敗できる場所(成功や達成のために)」を整備したい。土地の値段が上がり、相対的に円の力が弱まって、かつ、音源制作からの収益は落ちている。都内ではなかなか良いスタジオが借りられないが、地方に都内のような設備や機材が整っているとは言い難い。そういう格差を埋めて、多くの人たちに録音の環境を安価に整備したいと思った。これは自分がインディロックのバンドたちと音楽制作を続ける上での悩み、ナマで感じる経済的な問題に端を発している。限られた時間と予算のなかで、あとワンテイク!と遠慮なく試せるような場所や機会を作りたい。地方なので、泊まれるようにもしたい。DTMは裾野が広がる一方だけれど、スタジオでドラムを録音できる人はお金のある人に限られるし、ゆえに機会も閉じていっている。DTMerやトラックメイカーがエンジニアになれたり、バンドたちが自分たちである程度録音ができたり、そういうワークショップもしたいと思う。楽器を始める人たちを応援したいし、地域の子どもたちが理由もなく居てもいい場所にしたい。頑張るぞ。

28日。
母親が静岡でやっていた個展の設営というか、展示方法を見直す手伝いなどをして大阪移動。藤枝のスタジオの件は楽しみなのだけれど、時折不安でもある。資材費は倍に爆上がりしているという。機材も高くなっている。まあでも、お金のことを思い悩むと、やっぱり心が貧しくなってきて、とはいえ金銭の悩みは消えぬものなのだけれど、せめて朗らかに、アイデアが萎まない程度に悩みたいなと思う。が、悩みの程度をコントロールできるのならば、それは悩みではないはずで、どうしようもない自分の性分とかによって「そんなことを考える必要はない」みたいな分野でクヨクヨしてしまうからこそ、それは悩みと呼ばれるのではないかと思う。そいうのをボカンと投げ捨てて達観できるのは仙人か聖人くらいだろう。「こういう場所があってよかったね」そう言って、いつか死ねたらいいのかもしれない。