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【観劇感想】他人の旅と{わたし}(來來尸來003便「ブレイス」より)

昨日、來來尸來003便「ブレイス」を観てきました。

コンセプトのひとつとして「旅」を組み込んでいるというこの劇団のことは、以前から気にかけていた。今回も興味深いトピックがところどころにちりばめられていて、単純におもしろかったです。洗練された身体表現の緊張感と、ラフな会話劇の緩急のバランスも。それでいて、ふと覗く生々しさにどきりとさせられるのは脚本と演技と演出がきちんと計算されているのだろうなと思う。わたしは演劇・芝居全般には明るくなく、001便「ログ」以降二度目の鑑賞なのですが、この団体の大切にしているものがなんとなく感じられるようになってきたような気がします。

ここから先は {わたし}のはなし、個人的な体験を織り交ぜながらの文章になります。

恵文社一乗寺店のこと

会場は恵文社一乗寺店cottage。この場所が会場に選ばれたことも、十分意図されたことだろうと思う。
cottageとは以前からたびたび縁があり、文芸同人誌「しんきろう」で即売会や読書会を主催したことがある。最初の会社を辞めた翌日もそうだった。あのカウンターは何にでもなれるんだね、そのときはTくんがコーヒーを淹れるために使われた。店名を「not all bad coffee」という。中庭からの光を浴びながら、日曜日の昼下がりにこうしてコーヒーを飲んでるなんて信じられないなと思ったこと。主催が「なかなか悪くないネーミング」と笑っていたこと。(店名がどうしても思い出せなくて先ほどその主催に問い合わせたら、当時の記事を探しだして教えてくれたとともに同じ感想を言っていて可笑しかった。)はじめて詩の朗読をした場所もここなら、親しい友人たちの演奏会を観にきたこともある。思い出深い場所なのだった。
今回のストーリーは雑貨が並ぶ「古本屋」。ところで、本好きな田舎の高校生が上京して初めて恵文社一乗寺店を訪れた日は、知恵熱を出しそうになった。紙の中に閉じ込められた世界観のひしめきあいが、地元の書店や図書館には感じられない気配を帯びていたこと。知識欲を刺激されると同時に、それらをすべてを知ることは不可能だという絶望。終いにはどの背表紙に指をかけるかでこの先の未来の分岐に立たされているような錯覚すら覚えた。
恵文社一乗寺店もわたしも、長い時間をかけて変わっていくなかで、そんな風に揺さぶられることは少なくなってしまったけれど。世界の呼ぶ声に耳を傾けながら光の中庭を通ってすぐのこの場所で、「ブレイス」を観られたというのは、良い観劇体験になったと思う。

付記:古本と遺留物のこと

古本の中に挟まっていたものの名前をしきちゃんがえんえんと読み上げている。それをひとつひとつ頭に浮かべて聞きながら、つい思い出したのはわたしが個人的にたまたま所有している「遺留物」のことだった。その長いリストの中にはなかったようだけれど、わたしが手に入れることになったのは四百字詰め原稿用紙にボールペンで書き写された短歌五首。それは書砦 梁山泊で求めた『塚本邦雄歌集 星餐圖』の96ページと97ページの間に挟み込まれていた。きれいとはいいがたいけれど丁寧な字で、『星餐圖』から抜粋して書写したと思しき歌たちだ。
よく見るとマス目の外にKYOTO UNIVERSITYという印字があり、京大の学生だった君がどうして、思わず書き写さずにはいられなかったほど熱い気持ちを持っていたこの歌集を手放すに至ったのか、またこの本がどんな旅を経てわたしのもとにやってきたのか、どうしても気になってしまう出来事となった。この原稿用紙がどれだけ古いものなのかはわからないけれど、なんとなく歴代持ち主たちはこれに気づいていても抜き取らずにいたような気がする。ひとしきり眺め終えたわたしが、そっともとのページに挟みなおしたように。
この遺留物は旅の途中でたまたまわたしの目に触れた。ただそれだけのことだった。


旅することと書くこと

よく言われるように、読書は他人の旅を追想できる手段だ。わたしは読書もするけれど、自分の旅を追想する必要があったときのために文章を書くことがあり、つい昨夜書きあげた旅行記(【旅の記録】ウィーン・プラハ6日間)もそのひとつ。
よく目先の絶望にとらわれて、幸せだったときのことを忘れてしまう。けれどそれを逆手に取ると、どんな未来が待っていても大丈夫なように、幸せな記憶や楽しい体験のことは純度の高いまま保存しておきたくて、なるだけ良い状態で残すために、写真を撮ったり書いたりしているのかもしれない。
活字に残すことで、「他人の旅」にもなれるかもしれないし、旅を終えて年月が経ったあとの、歳を重ねたわたしにとってもそれは似たような作用をもつような気がしている。
本を読んだり、音楽を聴いたり、演劇を観に行ったりすることは、他人の旅という点で似ているけれど、演劇はちょっと切ない。もう二度と同じものは観られないから。ライブアーカイブが残せるようになった時代に、残せないものや残す判断がなされなかったものを観るとき、慣れというものの恐ろしさを思ったりもするけれど、だからこそこうして書き留めておかなくてはとも思う。旅することと書くこと、わたしはその価値を知っているからだ。

海外旅行はおろか国内の移動もしにくい生活になって一年。異国情緒に身を焦がしながら、{ここ}にいながらにして{今}も旅は続いている。これは「ブレイス」の閉幕にちらりと光が差し込んだとき、ふと気づいたことだった。

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