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小説「サムエルソンと居酒屋で」第8話

 翌朝、英也は幸せな気分で目覚めた。ふわふわとした意識がすっきりとしてくるにつれ昨夜の記憶が現実のものとしてよみがえり、それがまた幸福感を大きなものにした。
 泉心女子大学との合コンで、英也は向かい合わせに座った女子と意気投合。電話番号を交換し合い、デートの約束を交わすまでに至ったのだ。なんという上首尾だろう。
 彼女の名前は、水島香里。文学部の二年生。美人というよりは可愛いタイプで、世田谷の成城に住むお嬢様なのに、それを鼻にかけたりしない、飾らないところが気に入った。ああ、香里ちゃん。そう呟きながら、英也は枕をぎゅっと抱いて頬ずりをした。
 部屋の時計を見ると、午前九時だ。そろそろ腹が空いてきたので、起き上がり、布団をしまい、顔を洗い、着替えをして、近所の喫茶店へ歩いていった。
 注文したのは、いつもの通り、モーニングセット。コーヒーのほかにトーストが二枚、ゆで卵が一個、それにミニサラダが付いて、たったの二百五十円。さらにうれしいのは、スポーツ新聞が全紙そろっていることだ。プロ野球の昨夜の試合結果を見ると、ひいきのヤクルトが巨人に二対一で勝ち、首位をキープしていた。やったな、今年こそ悲願の初優勝が成るかもしれない。こんど香里ちゃんを誘って、神宮球場に観戦に行こうか。
 空腹を満たした英也が次に向かったのは、これも近くにある書店。小さな店だが、彼の求めるSF雑誌が置いてあった。手に取って見ると、表紙には
「いよいよ待望の日本初公開! 映画『スター・ウォーズ』特集号!」
 というフレーズが、宇宙戦闘機の飛び交うビジュアルをバックに際立っている。そう、来週の土曜日に封切りされるこの話題のSF超大作こそ、英也が香里ちゃんといっしょに観に行く約束をしたものなのだった。これは隅から隅まで必読だなと、雑誌を買って彼は店を出た。
 下宿に戻って、さっそく読み始めようとすると、二階に設置されたピンク電話が鳴り、五回目のコールで大家のお爺さんが出た。そして
「瀬川さーん、瀬川さーん、電話だよーっ!」
 と、大きな声で自分を呼んだ。
「はあい! いま行きまあす!」
 と、こちらも声を張り上げて応えた。大家は耳が遠いので、迅速かつ明瞭に反応を示さないと
「今いません!」
 と言って、ガシャンと電話を切られてしまうのである。
  階段を急いで上って電話機に近づくと、英也は受話器を取り、応対した。
「はい、瀬川です」
「俺だよ」
 それは毛利の声だった。どこか不機嫌そうな気配がある。
「おう。昨夜はお疲れさん。あれからどうした? こっちはお先に失礼したけど」
 英也が言葉を返すと
「おまえ、あの水島香里って娘と、デートの約束したんだって? うまくやりやがって。残りの六人は全滅だよ。俺も、石原も、安元も、池田も、大富も、渡辺も」
「そ、それは残念……だったな……」
「相手の電話番号すら、誰も聞きだせなかった。惨敗だ。それで渋谷から馬場まで戻って男ばかりで飲み直し。飲みすぎちゃって、二日酔いがまだ抜けないよ」
「しょ、勝負は時の運……っていうからな……」
「まあな。ああいうお嬢様方には、大隈大生は向いていないってことがよく分かったよ。スマートな福沢大生のようには、どうしたって振舞えないものな、俺たち。こんどは庶民的な女子大生に的を絞ってチャレンジしてみるよ。瀬川英也の健闘を祈る。じゃあな」
 電話が切れ、英也も受話器を戻した。階段を下りて部屋に戻ると、なんだか申し訳ないような気持ちにつつまれた。七人のうち、幸運をつかんだのは自分だけ。六人の仲間たちが討ち死にしたと聞いては、スター・ウォーズの記事を読む気にはなれなかった。
 そのとき、二階のピンク電話がまた鳴り、大家の声が響き渡った。
「瀬川さーん、瀬川さーん、電話だよーっ!」
「はあい! いま行きまあす!」
 こんどは石原からだろうか、安元だろうか、池田か、大富か、渡辺か。そう思いながら階段を再び上って受話器を取ると、英也は応対した。
「はい、瀬川です」
「こんにちは。私だよ」
 その声を聞いたとたん、彼は心臓が口から飛びだしそうになった。それは、今いちばん話をしたくない相手、留美からの電話だったのだ。
「あ、ああ……こんにちは……」
 かすれるような声しか出なかったが、とりあえずの返事はできた。さて次はどんな言葉を浴びせられるのだろう。まな板の鯉とは、このことか。と思いきや
「あのさ。私、もう怒ってないから、こないだの件は」
 と、留美の口調はとても穏やかだった。
「あ、ああ。許してくれたんだね、合コンのこと、電話を途中で切っちゃったこと……」
「もちろんよ。日本は自由恋愛の国ですもの。で、どうだったの? すてきな彼女は見つかった?」
「おかげさまで、可愛い娘と知り合えて、来週の土曜日に映画デートすることになって」
「まあ、よかったじゃない。素晴らしいわ。二人の仲が発展していくことを心からお祈りしてるわね」
「あ、ああ。どうもありがとう」
「ところで、今日電話したのはね、私の妹のことなの」
「妹さん? 高校生?」
「そう、高三で来年受験なんだけど」
「ふうん、これから大事な時期だよね」
「そうなのよ。その妹が、父や私の影響もあるのか、サムエルソンの経済学に興味を持っちゃって。自分も勉強会に参加したいって言うの」
「勉強会に? それは感心なことだけど、高校生が居酒屋で学ぶっていうのはどうなんだろうね。まあ、お酒の代わりにジュースを飲むのなら構わないと思うけど。でも妹さんの受験科目に経済学はないだろうし、来年合格してから参加したほうがいいんじゃない?」
「そうでしょ。私も姉としてそう思うんだけど、言いだしたら聞かない子でね。そこで、瀬川くんからも直接会って説得してもらえないかなって思って。それで電話したの」
「僕で良かったら力になるよ。まあ、微力だけどね」
「わー、良かった。どうもありがとう。それで、妹と三人で会う日時なんだけど、明日の日曜日は空いてる?」
「うん。空いてる」
「じゃあ、午後五時に中野サンプラザの入口のあたりで待ち合わせするのって、どう?」
「明日の五時に中野サンプラザの入口ね。オーケー、了解しました」
「頼りになるわー。じゃあ、よろしくね」
「こちらこそ。じゃあね」
 通話が終わったあと、英也の心は落ち着きを取り戻していた。不首尾に終わった仲間たちの合コンの件で思い悩んでいたところへ、留美の相談に乗ってあげられて、とにもかくにもクラスメートの役に立つことができた。そのことが彼に満足を与えてくれた。
 
 翌日の午後五時前。中野サンプラザの入口近くに立った英也は、階段のほうを向いて、留美とその妹が近づいてくるのを見つけようとした。ところが五分が経ち、十分が過ぎても、二人の姿は視界に入ってこない。もしかするとフリー雀荘に姉妹で行っちゃったのかな、まさかね、などと思っていると
「こんばんは!」
 背後からいきなり声をかけられた。相手はじっと建物の中に潜んでいたのだ。振り向くと、女性が二人。その姿に、英也は驚嘆した。姉も妹も、艶やかなミニスカート姿だったからだ。
 留美のミニなら普段着なので、こっちも見慣れている。ところが姉妹そろって真っ赤なスカートとなると、そのエロチックな相乗効果はテキメンで、英也はすっかり圧倒されてしまった。一六五センチ近い長身の姉にくらべ、妹のほうは一六〇センチほどの背丈だ。
 また清楚な顔立ちにロングヘアの姉とは対照的に、妹はくりくりと丸くて大きな愛らしい目をし、鼻筋がきれいに通り、ふくよかな唇にはスカートと同じく真っ赤な口紅を塗っている。頭には、これまた真っ赤なベレー帽。
 体つきも二人は異なっていた。姉はすらりとしたスタイルで、形の良い長い脚を露出している。妹は豊満で、ピンクのポロシャツのバストは、はちきれんばかりに盛り上がり、赤いミニから覗く両脚は、むっちりと肉づき良く、ヒップは大きな果実のように膨らんでいる。そして、この妹の全身に美を与えているのは、なんといっても肌の白さ。まるで、雪のような白さなのだ。豊かな魅力に満ちたこの妹に、英也は一目惚れをしてしまった。
「妹の志望校は、大隈大の政経なんだって。おそらく合格できるだろうから、瀬川くん、もしもよろしければ、今のうちから予約しておかない? 来年からの恋人として」
 留美の望外の言葉に、英也は
「ほんと? するする! 予約する! 留美にこんなに美人でグラマーな妹さんがいただなんて。同じ姉妹なのに、タイプが違いすぎるのでビックリしちゃった」
 と答えた。するとまた留美が
「泉心のお嬢様には勝てないでしょうけどね」
 と言ったので
「そんなことないよ! 妹さんのほうが、ずっとずっとステキだ!」
 英也はあわてて反論した。
「じゃあ、その娘とは別れて、妹と交際してくれる?」
「よろこんで!」 
 それを聞いた留美は、バッグから眼鏡ケースを取りだし、妹に渡した。妹は眼鏡を取りだしてかけ、ベレー帽を脱いだ。その変身ぶりに、
「あっ! ああっ! あああーっ!」
 と英也は声を上げた。
「み、み、み、み、実花子ちゃん! こ、こ、こ、こ、これはいったい?」
「きょう、留美さんのお家に行って、コーディネートしてもらったんです。体形がずいぶん違ったけど、なんとか着れるのが見つかりました」
 と実花子。
 続いて留美が話した。
「灯台もと暗しとは、このことよね、瀬川くん。いつも隣に座ったり、寮まで送ったりしていたのに、あなたは実花子ちゃんの素晴らしい魅力にまったく気づかず、合コンで相手を探そうとした。ま、それも仕方ないことなんだけどさ。なぜなら、彼女は乙女の純潔を守るために、男を近づけまいとした。オーバーオールを着たり、ごつい黒縁眼鏡をかけたり、刈り上げのショートヘアにしているのも、自分の魅力を封じこめるため。その眼鏡なんて度の入っていない、逆・伊達メガネなんだから。でも今日、あなたは実花子ちゃんの美しさの本質を理解した。だとしたら、すぐにでもやることは、なあに?」
「すぐにでもやること?」
「来週の土曜日、観に行く映画は?」
「スター・ウォーズ」
「観に行く相手は?」
「実花子ちゃん」
「断る相手は?」
「あ、そうか。香里ちゃんに電話しなくちゃ。でも、どう話して断ればいいかなあ……」
「田舎の父親が病気で危篤になりました。帰省するので映画には行けません、でしょ」
 そう言って、留美は微笑んだ。


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