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みかんの色の野球チーム・連載第11回

第2部 「連戦の秋」 その3
 
 
   10月がやって来た。
 あの一件があった後も、ブッチンと私は毎朝いっしょに学校へ通い、放課後は仲よしの5人組でいっしょに遊んだ。
 そして、月曜日の朝。
 いつものように玄関ドアの新聞受けから、届いたばかりの朝刊を抜き取った父は、その表面いっぱいに、でっかい「◎印」が赤々と書きこまれているのを見ても、もうスットンキョウな声を上げたりすることはなく、逆に、ワクワクした表情になった。
 先月の一件は、親友のブッチンが良かれと思ってやったことであること、それが津高に関する朗報を知らせるサインであったことを、すでに私が父に伝えていたからだ。
 いそいそと朝食前のちゃぶ台に着いた父は、4つ折りにたたまれた大分日日新聞を広げ、政治面などには目もくれず、真っ先にスポーツ面を開いた。
 傍らから私も覗きこむと……、
あった! やった!
 そこには、
「津久見が優勝 九州高校野球大会大分県予選」
 と書かれた大きな見出しが躍っていたのだ!
「やった、やったあーっ!」
「すげえ、すっげえーっ!」
 父と私は、大歓声を上げた。
「おい、かあさん、鯛の尾頭付きを出せ!」
 と、はしゃぐ父に、
「何を言いよんの」
 と、返しながら、アジの干物をちゃぶ台の上に並べていく母。
 やがて2人の妹たちも着座して、我が家の朝食が始まった。
「やったのう。大分商を相手に、4対0で勝ちか」
 ほかほかの御飯を頬ばりながら、父が言う。
「すげえのう。浅田が先発完封か。さすがはエースじゃあ」
 あつあつの味噌汁を啜りながら、私が続ける。
「優勝して、これから津高はどげえなるん?」
 干物を箸で切り分けながら、母が訊く。
「どげえもこげえも、来月の九州大会に出場じゃあ」
 タクアンをかじりながら、父が答える。
「九州大会でベスト4以上になったら、センバツ甲子園に出場じゃあ」
 お代わりした御飯を海苔で巻きながら、私が言い添える。
「津高の選手の中に、ハンサムな人おるん?」
 お茶をふうふう吹いて冷ましながら、上の妹の智子が大人びた声を出すと、
「あーん、かあちゃーん、醤油、服にこぼしたあー」
 下の妹の郁子が、セーターの左袖を黒く濡らして、泣き出した。
「こら! 郁! 昨日もこぼしたばかりじゃろ!」
叱りながら母が雑巾で袖を拭いてやり、
「こら! 智! 御飯を残したらいけん!」
 上の妹にも怒声を飛ばした。
「御飯を食べたら、太るけん。太ったら、スチュワーデスになれんけん」(※注)
 そう言いながら智子は立ち上がり、
「残した御飯は、ジョンにやったらいいわあ。行ってきまーす」
 と、ランドセルを手に取った。
 自分の名前が聞こえたのか、家の裏手から、ウォンウォンと飼い犬の吠える声。
「ねえちゃーん、待ってえー、いっしょに行くうー」
 拭いてもらったばかりの袖にランドセルを通しながら、下の妹が、また泣き声を出した。
 そうするうちにも、玄関のドアが開いて、
「タイ坊、生きちょんか」
 と、ブッチンの声。
 私と同時に、父も立ち上がり、玄関へ行くと、
「おお、吉田君。津高の優勝速報、ご苦労さん。これからも、よろしくなっ」
 そう言ってブッチンの頭を撫でまわしたので、
「はあ……どうも……」
 彼は、いささか妙な顔をした。
 
 意外な人物から電話があったのは、その5日後の、土曜日の夜だった。
 夕食を終え、お風呂から上がり、パジャマに着替えたばかりの私を、母が大声で呼んだ。
「太次郎、電話―っ! 学校の友だちからーっ!」
 自分の部屋から茶の間へ行き、母の手から黒い受話器を受け取ると、
「はい、もしもしっ」
 応対に出た私の耳に聞こえてきたのは、ブッチンやペッタンやカネゴンやヨッちゃんの声ではなく、他の男子からのメッセージでもなかった。
「あ、石村君? 深大寺です。夜遅くに電話してごめんなさい」
 当然のことながら、私は自分の耳を疑った。学校の友だちからと母が言うものだから、てっきり男からだと思っていた。女子からだなんて、思いもしなかった。ましてや、私にとって、特別な存在である女の子からの電話だとは。
「もしもし、石村君? 深大寺ですけど。聞いてる?」
「あ。はい、はい。あははい、はい」
 私は、バカのような返事をした。
「あ、石村君の声だ。良かったあ。ごめんね、こんな時間に電話して」
「え。いえ、いえ。いええい、えい」
 バカのような応答を、私は繰り返した。
「うふふっ。面白いわねー、石村君って」
 以前、教室で聞いたのと同じせりふを耳にして、私は胸の鼓動が高まるのを覚えた。
「あ。どうもどうも。それは、どうもどうも」
「ところでね、石村君。来週の日曜日って、何か予定、入ってる?」
「よてい? よてい、よてい、よてい……」
「何か、用事、ある?」
「ようじ。ようじ、ようじ、用事。いえ、別に用事は……」
「ああ、良かったあ。あのね。来週の日曜日ね、私のお誕生日なの」
「お誕生日。あ、はいはい。来週の日曜日。あ、はいはい」
「それでね。お誕生日パーティーをやるんだけど、石村君にも来てもらいたくて、それで電話したの」
 私は、またしても耳を疑った。いや、疑いっぱなしだった。いま、自分は深大寺ユカリと話をしているのだ。しかも、なんと、お誕生日会に誘われてしまったのだ。いったい、これは現実の出来事なのだろうか。
「それでね、石村君」
「あ、はい」
「うちの学校からご招待するの、石村君だけなんだけど」
「あ、はいはい」
「私のお誕生日パーティー、来てくれる?」
「あ、はいはい、はい」
 私の口が、勝手に、了解の返事をしてしまった。
「あー、良かったあ。どうもありがとう。じゃあ、来週の日曜日のお昼に、私のおうちでパーティーやるから、12時頃に来てね」
「来週の、日曜日の、お昼。あ、はいはい」
「10月16日の、正午。ね」
「10月の、16日の、正午。あ、はいはい」
「忘れないで来てね。10月16日。私ね、天秤座生まれなの」
「て、てんびん? てんびんざうまれ?」
「そう、天秤座。石村君は、何座?」
「え? なにざ? な、なにざ、かなあ?」
「何月、何日、生まれ?」
「え? あ、ああ。4月13日生まれじゃあけど」
「だったら、牡羊座じゃない」
「お、ひつじ? ひつじ? 俺、ひつじ? 俺、めえええーっち鳴くん?」
「アハハハハッ。やっぱり面白いわねー、石村君って」
「あ。どうもどうも。それは、どうもどうも」
「じゃあ、来週の日曜日、楽しみにしてるからねー。バイバーイ」
 電話が切れ、受話器を戻した後も、私の胸の動悸は治まらなかった。反対に、頭の中はボーッとして動かなかった。
 果たして、これは現実なのか、それとも夢でも見ているのか。
 そのとき、
「やるじゃあねえな、にいちゃん」
 と、先ほどの会話の一部始終を聞いていたらしい上の妹の智子が冷やかすように言い、反射的に私がポカリと彼女の頭を小突いたら、
「いてえっ」
 と、リアルな声を上げたので、やっと私は、自分が現実の中にいることを確認できたのだった。
 何はともあれ、行動に移らなければ。
 とは言っても、どんな行動を起こせば良いのか。
 私は、しばし、沈思黙考した。
 そうするうちに、とりあえずの方策が浮かんできた。
 相手は、矢倉セメント工場長の娘。
 自分は、テーラー石村の息子。
 よしっ、それならば。
 私は、茶の間を出ると、父の部屋へ向かい、ふすまを開けた。
 6畳間の真ん中に分厚い将棋盤を置き、将棋の本を読みながら駒を動かしていた父は、私が部屋に入っても顔を上げようとはしなかった。
 私は言った。
「とうちゃん、ちょいとお願いがあるんじゃあけど」
「うん?」
 将棋盤の上に目を落としたまま、父は返事をした。
「あんな、俺な、友だちの誕生日会に呼ばれることになったんじゃあけど」
「うん」
「その友だちいうんは、同じクラスの人間でな」
「うん」
「男子じゃ無えで、女子でな」
「うん」
「普通の女子じゃ無えで、金持ちの娘でな」
「うん」
「東京から転校してきた、ハイカラなお嬢さんでな」
「うん」
「父親が東大を出ちょって、本人も全校で成績トップでな」
「うん」
「矢倉セメントの工場長の娘なんじゃあけどな」
「うん」
「その立派な家に呼ばれて行くんじゃあけどな」
「うん」
「あんまり恥ずかしい格好はして行かれんけえな」
「うん」
「とうちゃんは、洋服の仕立て屋さんじゃろう」
「うん」
「将棋も名人じゃあけど、服を作るのも名人じゃろう」
「うんうん」
「津久見で一番、服を作るのが上手いんじゃろう」
「うんうんうん」
「大分県でも一番、服を作るのが上手いんじゃろう」
「うんうんうんうん」
「日本全国でも一番、服を作るのが上手いんじゃろう」
「うんうんうんうんうん」
「それを見こんでのお願いなんじゃあけどな」
「うんうんうんうんうんうん」
「俺が誕生日会に着て行く服を、作ってほしいんじゃあ。日本一の服を、作ってほしいんじゃあ。来週の日曜日の午前中までに、作ってほしいんじゃあ」
「うんーっ?」
 父は、初めて顔を上げ、まじまじと私を見つめた。
 
 
                                    
 (※注)もちろん、この時代はまだ「キャビンアテンダント」でも「フライトアテンダント」でもなく、「スチュワーデス」。人気の「バスガイド」の遥か上を行く、女の子の超憧れの職業であった。


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