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将棋小説「三と三」・第10話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




「危ないところを助けていただき、ほんとうにありがとうございました」
 礼を述べ、エプロンの娘がテーブルに運んできたハヤシライスを、幸三はむしゃむしゃと食べ、コーヒーをごくごくと飲んだ。どちらも大阪で食べたり飲んだりするのより、どことなくハイカラな味と香りがするように思えたのは、やはりここが東京の銀座の店だからなのか。
 椅子の背にもたれ、満たされた腹をゆるゆるさすっていると、笑顔を取り戻した娘がまたやってきて、テーブルの上をきれいに片づけたのち、新しい水の入ったコップを置いていった。
「強いお客様がいてくださって、良かったわねえ、綾ちゃん」
 去っていく娘にそう言って、青いワンピースの女性が近づいてきた。そうして幸三に微笑みかけた。
「お邪魔してもよろしいかしら?」
 美しい女性に、いきなり澄んだ瞳を向けられ、涼しい声をかけられて、幸三はどぎまぎし、
「あ、あははい、はい」
と、間抜けのような返事をしてしまった。
 かすかな笑みを含んだ表情で女性は幸三の向かいの椅子を引き、音もなく腰掛けた。それから両手を膝の上に組んで置き、再び幸三の顔を見つめて言った。
「先ほどは、どうもありがとうございました」
「え、えへへい、へい」
 またも、阿呆な応答をやってしまった。エプロンの娘が相手なら平気なのだが、こんなに綺麗な洋服を着た、しかも年上の美女を目の前にすると、どうしても女性経験の無さが露呈してしまう。いかん、きちんと話さねば。
「せ、生産ぶ物、よ余剰がどうのこうのと、な、何か難しいことを喋っていますたが、い、いったい、何者なのでづか?」
 幸三の緊張した様子を見かねて
「お国言葉でよろしくってよ、先ほどのような」
 女性がそう言ったので、
「生産物余剰がどげえのこげえのと、何ぞ難しいことを喋っちょりましたが、いったい何者なんですかのう?」
 ようやく幸三は、きちんと話すことができた。
 女性は、くすりと笑い、それから答えた。
「似非のコミュニストたちですわ。昨今は学生街だけでなく、銀座界隈でもよく見かけるようになりましたの。左翼のインテリぶって長広舌をふるってはみせても、しょせんは女性たちを同志と呼んで風俗営業のお店で働かせ、経済的に寄生して暮らしているような人たちです」
「それはケシカランですのう。男子たるもの、自分の力で稼がんといけません。堂々と勝負をして、堂々と勝って、堂々と稼がんといけませんわい」
 その言葉を聞いて、女性は興味深そうな口調になった。
「将棋の関係のお仕事をなさっているのかしら? 先ほども、歩兵とか、香車とか、おっしゃってましたけど」
「よくぞ訊いてくれました」
 幸三の語勢に弾みがついてきた。
「ワシは将棋四段、その名を升田幸三と申します。全四段登龍戦を戦うために、大阪より参上いたしました。ただいま三連勝。五段へ向かって驀進中ですわい」
「まあ、棋士の先生ですのね」
 女性の声が、嬉しそうな音色を帯びた。
「升田さんとおっしゃるのね。申し遅れました、私、若子といってこのお店の主をしております。若子といっても、升田さんほど若くはございませんけども。五段に上がれるとよろしいですわね、升田さん。私も、応援してますことよ」
 若子の言葉が好意的なのに気を良くして、幸三は喋り続けた。
「五段に上がったら、次は六段。六段に上がったら、次は七段。七段に上がったら、次は八段に上がり、名人挑戦者決定リーグに参戦して優勝するんじゃ。木村を倒して、名人になるんじゃ。日本一の将棋指しになるんじゃ!」
 勢いを増した幸三の言葉に、若子は少し沈黙をし、やや伏し目になり、何かを考えているふうを見せた。それから、二重のまぶたをそっと開き、小さくて柔らかそうな唇をふわりと開いた。
「名人になれると、よろしいですわね。日本一になれると、よろしいですわね。ぜひ、お励みになって、出世してくださいましね」
「ええ、励みますけん! 日本一に出世してみせますけん!」
 元気よく、幸三は応じた。
「ところで、あのときですけど。歩兵と香車と銀将と金将と飛車と王将は出てきましたのに、どうして桂馬と角行の駒だけは、頭の中でお休みになってたのかしら?」
 若子の問いかけが、酔漢どもに食らわせた自分の頭突きのことを指しているのに、幸三は気づいた。それで、答えた。
「そもそも桂馬と角行は、前には進めない駒じゃあけん、頭突きには不向きなんですわ。じゃあけん、ワシの頭の中で、のんびり昼寝をしとったんです。あ、夕寝かな。もう六時ですけんのう」
 羽織の袖をたくし上げ、腕時計を見ながらの幸三の返答に、
「うふふっ」
 若子は思わず笑った。
 涼しげで、とても気品のある大人の女性の声なのに、その笑いには、どこかしら無邪気な女児の声色が、響きとして含まれていて、幸三はうっとりと聞き惚れた。この女性は、どんな幼女のときを、少女のときを、過ごしてきたのだろう。
 それと「腰かけ銀」だ。喫茶店としては一風変わった店の名を、どうしてこの女性は付けたのだろう。幸三は口を開いた。
「若子さんも、将棋を指されるのですか?」
「あら、どうして?」
「腰かけ銀。将棋を指さない人に、この名前はちょっと思い浮かばんでしょう」
「ああ、そのことね……」
 少し間をおいてから、若子は答えた。
「……私の知人に、将棋の好きな方がいらしてね。一昨年、お店を開くのに当って、この名前を考えてくださったの。私自身はと言うと、将棋は駒の動かし方を知ってるくらいなのですけど、腰かけ銀という名前には、銀座でゆっくり腰をかけて、コーヒーや紅茶でも味わいながら、レコードで音楽でも聴きながら、お客様にくつろいでいただこうといった意味合いが感じ取れて、とても気に入っているのですよ」
 なるほど、と幸三は思った。そう言われてみると、ゴブラン織りの生地の椅子や丸テーブルは、お洒落でくつろぐのに良いし、左手の壁を背に置かれてある四本足の茶色い箪笥のような家具は、おそらく時代の先を行く電気蓄音機というものなのだろう。「電蓄」は、たいへん高価な機械だと聞く。
「レコード、お聴きになる?」
 若子の問いに、
「はい。カチューシャの唄を」
 と、幸三は答えた。
 その返事に意外そうな顔をし、ややあって彼女は言った。
「お若いのに、昔の曲をご存じですのね……」
「はい。子供の頃、近所の家にあったラジオで聴いて覚えたんですわ。家出をしたときも、あの唄を歌いながら、元気に山道を歩いていきました」
「家出? 元気? そもそも元気の出る曲かしら? むしろ悲しさや切なさを感じませんこと? 松井須磨子のあの声に……」
「まついすまこ、言うんですか、あの声の女の人は。実は、初めて名前を知りました。別れのつーらーさーと歌うからには、悲しくて切ないのかもしれんけど、だからこそ元気を出さんといけんと、ワシは思うんですわ。あちらの娘さんも、頭にカチューシャつけて、元気いっぱいに仕事されとるようですしの」
 そう言って、幸三はエプロン姿の綾のほうへ顔を向けた。
 その言動に、思わず笑顔の若子。 
 やがて彼女は椅子から立ち上がり、茶色い家具調の機械の前へと移動した。幸三もまた、椅子から腰を上げ、電蓄の操作を見学することにした。
 まず天板を開けると、ターンテーブルとアームが現れた。次に、正面の扉を左右へ両開きすると、枠に収まったラジオの目盛りなどが見え、その下はスピーカーになっている。若子は電蓄の右側にあるレコードの収納棚から一枚のジャケットを抜き取ると、そこから円盤を取り出して、ターンテーブルの上にそっと置いた。それからスイッチを入れ、円盤が回り始めると、右手の人差し指の先をアームの金具に掛け、円盤の外周へ動かし、先端に付いた針を静かに円盤の上に下ろした。
 そうしてスピーカーから聞こえてきたのは、懐かしい、あの歌声だった。

 カチューシャかわいや 別れのつらさ
 せめて淡雪とけぬ間と
 神に願いを ララ かけましょか

 カチューシャかわいや 別れのつらさ
 今宵一夜に降る雪の
 明日は野山の ララ 道かくせ

 カチューシャかわいや 別れのつらさ
 せめてまた逢うそれまでは
 同じ姿で ララ 居てたもれ

 カチューシャかわいや 別れのつらさ
 つらい別れの涙の隙に
 風は野を吹く ララ 日は暮れる

 カチューシャかわいや 別れのつらさ
 広い野原をとぼとぼと
 一人出て行く ララ 明日の旅

 いつの間にか、新たな客たちで店内は混んできた。腕時計を見ると、六時半を回っている。レコード盤を仕舞った若子に、幸三は声をかけた。
「そろそろワシ、青山北町の宿舎に帰りますけえ。お代は、なんぼですかの?」
 若子は答えた。
「悪いお客さんたちを退治してくださったお礼に、本日は無料とさせていただきます。またのお越しをお待ちしておりますわね」
「また来ても、いいんですかの?」
「もちろんですわ。喜んで」
 若子の言葉を聞くと、幸三は店を出て、銀座四丁目の電停へと向かった。カチューシャは別れる女性だけど、若子はまた会える女性なのだという現実に、彼の足取りはどこまでも軽やかだった。


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