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みかんの色の野球チーム・連載第25回

第3部 「事件の冬」 その8

 
 
 勝山総合病院は、津久見市で一番大きな病院だ。(※注1)
 学校から歩くこと、40分あまり。市内の目抜き通りから、海の方向へ1本外れた通りに面する5階建てのビルの入り口に、私は至った。
 ユカリとフォクヤンが昨日発見されたのは、この辺りなのだろうか。
 そんなことを考えながら、ドアを開けて病院の中に入り、受付でユカリの病室を訊ねると、太った女性事務員が、305号室だと教えてくれた。
階段を昇って3階のフロアに達すると、長い廊下が延びており、それを途中まで歩いて、止まる。
 右側の部屋のドアに「305」と記された白いプレートが付いているのを確認した私は、コン、コンと、2回ノックをした。
 しばらくすると内側からドアが開かれ、ユカリの母親が姿を見せた。
「あら、石村君。お見舞いに来てくれたのね。どうも、ありがとう」
 笑顔でそう言った彼女だが、その表情はとてもやつれた感じに見えた。
 無理もない。インフルエンザが治ったばかりのところへ、娘の失踪。彼女がこうむった心痛は、相当なものだろう。茶色のセーターに黒っぽいズボンという普段着の姿は、あの誕生日会で貴婦人の装いを見せた彼女とは、別人のようだった。
 病室の中へ通されると、そこにはベッドが1台置かれてあり、布団から覗いた小さな顔が、私の方を向いている。
 ベッドへ歩み寄り、ユカリの顔を見ながら、私は訊いた。
「具合は、どう?」
 横になったまま、視線を私の顔に注いで、彼女は答えた。
「うん……。右足がまだ少し痛くて歩けないんだけど、来週中には良くなって退院できるだろうって、お医者さまが……」
 その声は意外に元気そうで私を安心させたが、色白のきれいな顔に、傷あての大きなガーゼが2枚貼られている様子は何とも痛々しかった。
「石村君、これに座ってちょうだい」
 そう言って母親が出してくれた折りたたみ椅子を受け取り、ベッドの脇に据えて腰を下ろした私だが、まだお見舞いの品を渡していなかったことに気づき、
「あのう、これ」
 立ち上がって、バナナが2本入った紙袋を母親に差し出した。
「あら、まあ。お心づかい、どうもありがとうね」
 紙袋を受け取った彼女は、中身をちらっと覗いて微笑み、病室の窓際に設置された棚の上に、袋ごと置いた。
 そこには、昨夜からこの部屋を訪れた数多くのお見舞い客が持参してきたものと思われるたくさんの花束が、花瓶に収まりきれないまま並べられており、果物かごに山と積まれた色とりどりのフルーツの中に、大きなバナナの一房が丸ごと入っているのを見つけて、私は恥ずかしくなった。
「ごめんね……」
 そのとき、ベッドに寝ているユカリが言った。
「え……?」
「いろいろと心配をかけて、ごめんね……」
「いやあ、ぜんぜん気にせんでいいけん、そげんことは」
 返事をしながら、私は思った。ユカリには、何も知らせまいと。
 学校にやってきた刑事のことも、怒鳴り声を上げたヒゲタワシのことも、責められて泣いた佳代子のことも、それを庇ったブッチンのことも、5人で結成した特別捜索隊のことも、神社の防空壕跡での捜査のことも、失踪者の無事を伝えたPTAの連絡網のことも、テレビニュースの報道のことも、そして、クラスの全員でヒゲタワシを打ち倒したことも。
 ユカリが傷ついているのは、体だけではないはずだ。昨日の朝から起こったさまざまな出来事のうちの、たった1つでも、彼女に知らせてはならないと、私は思ったのだ。
「あのね、石村君……」
「うん……?」
「私ね、もうひとつ謝らなくちゃいけないことがあるの、石村君に……」
「…………」
「失くしちゃったの、つく美ちゃんを……」
「え……」
「あのお爺さんにおんぶしてもらって、山小屋に連れて行ってもらって、暖炉で温まっているとき、気がついたの。ランドセルから、つく美ちゃんが失くなっていることに……」
「…………」
「たぶん、山道で転んだときに、その弾みで、ランドセルから外れて落ちちゃったんじゃないかと思うんだけど……。ごめんね……、せっかく石村君のお父さんが作ってくれたのに……」
 この事実には少なからず落胆したが、それを悟られまいと、私は言った。
「いいけん、いいけん、ぜんぜん気にせんでいいけん、そげなこと。また、とうちゃんに頼んで、作ってもらうけん。こんどは、スーパーつく美ちゃんを、作ってもらうけん」
「スーパーつく美ちゃん? いったい、どんな、つく美ちゃん?」
「スーパーつく美ちゃんはのう、とにかく、スーパーなんじゃあ。ものすごう、スーパーなんじゃあ。頭のてっぺんからつま先まで、信じられんくらい、スーパーなんじゃあ」
 私の、口からの出まかせに、
「つく美ちゃんって、つま先、あったっけ?」
 ユカリから、思わぬ指摘があったので、
「あっ、そーかーっ」
 私は、頭をボリボリ掻いた。
 そのしぐさが可笑しかったらしく、ユカリが
「アハハハハッ」
 と、声を出すと、窓際に座っている母親までつられて笑った。
 思わぬ会話の好転に、病室の空気が和んだ。
 そして、この、明るくて柔らかな雰囲気が、私の心の中にある大きな疑問を、口に出すよう促した。
「あんのう、ユカリ……」
「うん……?」
「ひとつだけ、質問しても、いいじゃろうか?」
「え……?」
「どげえして、彦岳に、行ったん?」
「…………」
 それまで私に注がれていたユカリの視線が、質問と同時に、横に逸れた。
 病室の白い壁に顔を向けたまま、彼女は黙りこんだ。
 窓際の母親が、慌てたように椅子から立ち上がり、
「石村君。なにか、フルーツ、召し上がる?」
 場を取りつくろうように訊いたが、私は返事をしなかった。
 壁を向いたままのユカリの顔を、じっと見つめていた。
 そうして、しばらく。
 ユカリはようやく口を開き、視線を壁から離さずに、私に言葉を送ってきた。
「あのね、石村君……」
「うん」
「おとといの学校の、最後の授業、覚えてる……?」
「うん。図工じゃろ。教室の窓から見える、好きな風景を描いた」
「石村君は、何を描いたの……?」
「俺は、イチョウの木を描いた。葉っぱが無うなって、描きやすいけん、描いた」
「そう……。私はね……」
「うん」
「彦岳を描いたの……」
「え……」
「教室の窓から見える、いちばん高いものを探したの。それが、彦岳だったの……」(※注2)
「…………」
「だから、彦岳を描いたの……」
「…………」
「彦岳を描きながら、私、考えていたの……」
「え……? 何を……?」
「この授業が終わって放課後になったら、あの山に登ってみようって、考えていたの……」
「えっ……? どげえして……?」
「あの山の頂上からなら、見えるかもしれないって、思ったの……」
「えっ……? 何が……?」
「東京タワー……」
「えっ……」
「彦岳の上からなら、見えるかもしれないって、思ったの。東京タワーが……」
「…………」
「見えるはずなんかないってことは、分かってたの……。でも、でも……、もしかしたら、見えるかもしれないって、そう思ったの……」
「…………」
「だから、彦岳に、行ったの……。頂上まで、登ろうと、したの……」
「…………」
「バッカみたい……」
「え……?」
「私って、バッカみたい。もうすぐ中学生になるのに、東京タワーが見えるかもしれないなんて思っちゃって、バッカみたい……」
「…………」
「九州の山から、東京タワーが見えるかもしれないなんて思っちゃって、バッカみたい。私って、ほんとうに、バッカみたい……」
「…………」
 そのときだった。むせぶような声が、窓際の方から聞こえてきたのは。
 振り向くと、ユカリの母親が、椅子に座ったまま、両手で顔を覆っていた。
 彼女は、泣いていた。低い声を絞り出して、泣いていた。
 娘から、失踪の理由を聞かされて以来、いったい彼女はどれだけの涙を流したのだろう。
 母親は、泣き続けた。ずっと、泣き続けた。
 だが、目の前で泣いているのが、実は母親なのではなく、ほんとうはユカリ自身が泣いているのだということが、私には分かっていた。
 
 

(※注1)現在は、臼杵市に勝山動物病院というのがある。院長先生は名医らしい。
(※注2)津久見市には、高層建築物が1つもなかった。今も、そうである。


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