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小説「サムエルソンと居酒屋で」第22話

 翌日。午後五時の少し前、英也は居酒屋ニューほそぼそに電話をかけた。開店前のこの時間なら客の存在を気にせずに話ができると思ったのだ。
 三回目のコールで相手が出た。
「はい。ニューほそぼそです」
 彼女の声は、四十一年前とさほど変わっていなかった。甘くて柔らかそうなところも、温かで人なつっこいところも。
「もしもし……わ、私……」
 思わず緊張してしまった。すると
「あっ、英也さんの声だ! さっそく電話をくれたのね! どうもありがとう!」
 実花子は気さくに応対してくれた。それで英也の緊張も解けた。
「明日、そちらへ伺おうと思って」
「まあ、うれしい! じゃあ二時にお店を開けて待ってるわね!」
「うん。じゃあね」
 電話を切った英也の心は、大きく弾んでいた。そして今夜はサウナに泊って体をきれいにしようと、上野の街へ歩いていった。

 高田馬場駅から歩いて栄通りの入口へ、そこから以前のほそぼそがあった場所へ。四十年もの歳月を経て訪れた英也は、建ち並ぶ店の構えや街並みの大きな変化に戸惑ったが、足がなんとか道筋を覚えていてくれた。そして小さな店の前に至ると、軒先に掛けられた赤ちょうちんには昔と変わらぬ「居酒屋」の三文字が書かれてあった。
 入口のつくりも、昔のままだ。ガラガラっと引き開けて店内に入ると、目の前に一人の女性が立っていた。空色のワンピースを着た彼女の顔は、昔の美しさを保っていた。肌は抜けるような白さで、髪にパーマをかけているが、変わったのはそれくらい。くりくりと丸くて大きな目でじっと英也の顔を見つめていたが、突然その目から涙があふれだしたかと思うと、駆けだし、抱きつき
「会えた……やっと会えた……四十一年ぶりに会えた……」
 と嗚咽した。
 英也もまた彼女を抱きしめながら
「こんな僕をずっと愛してくれるなんて……ホームレスに落ちぶれた僕を、昔と変わらず愛してくれるなんて……。心の傷はとっくに癒えたよ。四十一年も経ったんだもの……」
 と涙声を出した。
 長い抱擁ののち、二人はカウンターの椅子に並んで腰かけた。
「こんなに長い別離の間に、お互い、どこでなにをしていたのか、話しましょ。じゃあ、私から」
 そう言うと実花子は、自身の半生についての物語を始めた。
「大学を中退して秋田に帰った私は、亡父の跡を継いで『みちのく木材株式会社』の代表取締役になった。もちろん同族会社だから、それができたんだけど。でも、現実は甘くなかったわ。藤吉さんにいろいろ教えてもらいながら、輸入材の普及に押されて価格低下が危ぶまれる秋田杉の新しい市場を開拓しようと、住宅の階段・カウンター・手すりやキッチンに使われる集成材などの製造販売に乗りだしたの。ところが、これが大失敗。幸い、会社にとって致命的損失にはならなかったけど、私の信用は落ち、私自身も経営者の能力が欠如していることを思い知らされたわ。そんなある日、私に縁談が持ちこまれた。相手は三つ年上で、亡父と同じく政宗大学の経済学部を卒業後、県庁の農林水産部林業木材産業課に勤める人だった。これほどの逸材であれば会社の経営を安心して任されると周囲は喜んだけど、私は断った。なぜなら、あなたのことを愛し続けていたから。そこで私はこの縁談を妹の志真子に譲り、経営も新郎新婦に任せることにしたの。そして会社に迷惑をかけた責任をとって辞任し、新しい生き方を探そうとした。そこで電話をかけたのが、留美さん。東京で会って話をしようということになって、ここ、ほそぼそで待ち合わせたの。ところが驚いたことに、あのマスターの元気がないの。あんなに快活な人がいったいどうしたのかなって思ってたら、留美さんから耳打ちをされたわ。奥さんを乳がんで亡くしたばかりだってことを。そう言えば、カウンターの中にはマスター一人っきり。目立たないけどよく働いていた奥さんの姿がないわけよ。そのとき、私の頭に妙案が閃いた。ここで働かせてもらおう。奥さんの代わりに私が働いて、マスターを元気にしてあげようって。そう心に決めると、お店が引けたあと私はマスターに言った。ここで働かせてください、給料なんていくらでも構いません。料理も掃除も得意です。私の熱意が通じたのか、では来週から来てくれということになったの。西武新宿線の中井駅近くに三畳のアパートを借りて時給三百円で働き始めたわ、マスターにみっちり仕込まれながら一生懸命に。客の中には付き合わないか、結婚してくれ、なんて言い寄る人もいたけれど、私は無視して働いた。そのうちいつか、あなたがお店に来てくれることを固く信じて。やがて、あなたがホームレスになったことを留美さんから聞いたわ。朝、六本木駅のホームを歩いていたときに、あなたが針金を使いながらゴミ箱から雑誌を拾うのを見たって。それを聞いて、私は思ったの。ああ、お互いに『ビンボー・シンボー』を続けてるんだなって。でも、その先にはきっと『ビリーバボー』な日が訪れる。貧乏に喘ぎながらも、辛抱をして働いていれば、信じられる人と幸せな日々を送ることができる。そう思い直して私は引き続き頑張った。そして、この店に来て三十三年が経った今年の五月、マスターに言われたの。自分はもう八十五歳、引退したいのでこの店を受け継いでくれないかって」
 そこまで話すと、実花子は英也の顔を見つめ
「こんどはあなたの番よ」
 と言った。そこで英也は口を開いた。
「大学を卒業後、僕は広告代理店に入社した。業界でも上位の会社だった。配属されたのは、営業本部。昔から口達者な自分には、まさに適職だった。入社から五年が経った冬、バブル景気がやってきた。自分の担当する顧客企業には老舗や新興を問わず不動産関係の会社が多く、こぞって土地を買い漁り始めた。そして、リゾートマンションやテーマパークなどを次々と開発し、その広告宣伝を請け負った僕の業績も、うなぎ上りに伸びていった。これを会社の上層部に認められ、僕は三十二歳の若さで営業副部長に抜擢された。年収は千五百万円を超え、都内に新築のマンションを買って妻を住まわせ、高級外車を乗り回した。ところが、こんな生活も泡と消えた。不動産バブルの崩壊で顧客企業の保有する不動産はどんどん値下がりし、新興企業の間では倒産も相次いだ。そうなると、困るのはこちらだ。広告媒体費、広告制作費などの売掛金が回収できなくなり、僕は上司に大目玉をくった。一転、無能社員扱いされ収入も減る一方で、マンションと車のローンの返済がキツくなった。仕方なく両方とも売り払い借金と別れようとしたけど、マンションの価値はすでに下落しており、車を売って得た金を注ぎこんでも一千万円の金融機関への負債が残ることが分かった。妻は愛想をつかし、実家へ帰った。数日後、離婚届の用紙が届き、署名捺印して送り返した。悪夢はさらに続いた。バブル崩壊後、顧客企業が行なうのが広告費の削減だ。経営のスリム化を余儀なくされた会社はリストラに着手。その候補に僕も上げられた。まだ三十代の半ばだというのにバブルのせいで社員失格の烙印を押された僕は、一千万円の退職金と引き換えに会社を去った。マンションと車を売却し、それに退職金を加え、やっと家の借金を完済した。だけど、まだ車のローンが残っている。安アパートに引っ越し、失業手当を受けながらハローワークで職探しをしたけど、なかなか希望する仕事は見つからない。コピーライターやデザイナーなどの制作職は同業他社へ移ったり独立したりの道があるのだけれど、広告代理店の営業職ほど潰しが効かないものはない。さらに副部長という肩書も敬遠されて、就職の邪魔をする。ようやく見つけたのが、大手スーパーの仕事。だけど契約社員は正社員にくらべ給料がずっと安く、一年くらいで辞めた。あとはもうドラッグストアの販売員、ガソリンスタンドの作業員、通販会社の発送係、ファミレスのホール係など、いろいろやったけど、車のローンを完済できるだけの給料をもらえる仕事はひとつもなかった。そこで四十二歳のとき、僕は上野公園へ逃げた」
 話し終えると、英也は実花子の目を見つめて
「君が僕への愛を裏切らなかったのに、僕は裏切り、いちど結婚した。学生時代にやっていた家庭教師のバイト先で紹介された女性だ、いまはもう他人だけど。こんな僕を許してくれるのか?」
 と訊いた。そのとたん、彼の左頬が
「パシーン!」
 と大きな音を立てた。平手打ちされた頬を手で押さえ、実花子の顔を見ると、そこには険しい表情があった。だが、しばらくすると、それもだんだんと和らいでいった。
「今ので許してあげる」
 実花子はそう言ったのち
「うちの店で働いてみない? これまで私がやってきたカウンターの中の助手の仕事で、時給は五百円。勤務は来週から。ただし、住みこみで」
 と、水を向けた。
「住みこみでって、ここにはそんなスペースは……」
「ここじゃないわ。私のアパート。いまは東西線の落合駅から歩いて七分の2DKに住んでいるの。そこに住みこんで、私といっしょに暮らしてくれる?」
「ありがとう」
 そう答えると、英也は立ち上がり、実花子も立ち上がって、二人は抱き合った。そして唇を重ね、じっと動かないままでいた。
 ようやく二人の体が離れると
「四十一年経っても、相変わらず温かいのね、あなたのキッス」
 そう言って、実花子が微笑んだ。


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