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小説「ころがる彼女」・第1話

 家が建った。
 邦春の住まいの、道路を挟んで真向かいに放置されていた空家が取り壊され、更地になり、売地の看板が立ち、やがて建築工事が始まって、いつの間にか完成したのだ、その二階建ての家は。
 平成三十一年の二月のことである。
 それから大きなトラックがやってきて、家具や段ボール箱が邸内へ運びこまれ、最後に乗用車がガレージに収まったときには、カレンダーは三月になっていた。
 ある夜。居間のソファーにくつろぎ、テレビを眺めながら邦春がウイスキーを楽しんでいると、インターホンが鳴った。通話ボタンを押し、応じると
「夜分遅くに、たいへん失礼いたします。こんど向かいの家に越してきた西原と申します。ご挨拶にお伺いしたのですが、よろしいでしょうか……」
 という声がした。
 テレビを消し、玄関へ。ドアを開けると、男が一人立っていた。
「西原です。どうぞよろしくお願い申し上げます。これはつまらない物ですが……」
 礼をし、そう言って、紙包みを差し出した。
「これは、どうも。わざわざご丁寧に、ありがとうございます」
 礼を返し、包みを受け取りながら
「清水です。こちらこそよろしくお願いします。犬と暮らす独居老人ですが。西原さんのご家族は?」
邦春が問うと、男は少し間を置いてから
「妻と二人暮らしです。ほんとうに、どうぞよろしくお願い申し上げます……」
 そう答え、再び頭を下げたのち、立ち去った。
 やけに礼儀正しい人だったな。五十代の半ばくらいか。背は低く見た目は地味だけど、まじめな勤め人って感じだな。居間に戻った邦春は、そう思いながら受け取った紙包みを解いていく。箱を開けると、せんべいの詰合せが現れた。
「こりゃ、いいや」
 ソファーに座ると、さっそく海苔巻きをつまみ、またウイスキーを飲み始めた。
 酔いが回るにつれ、自分がこの家に越してきた四十五年前の記憶がよみがえる。
 今は亡き妻、敬子の生まれ故郷なのだ、ここ埼玉は。
 昭和十年に千葉で生まれた邦春は、工業高校を卒業すると地元の無線電報局に就職した。勤務を始めて九年後、二十七歳のときに、県境を越えた集団見合い会で知り合ったのが、埼玉の電報電話局の職員、十八歳の敬子だった。
 可愛い娘だった。一目惚れした。交際を申し込み、プロポーズをし、結婚した。そして千葉のアパートからスタートした二人の生活は、翌々年に大きな変化を迎えた。
 陸の無線技術士だった邦春が、海の通信士に姿を変えたのだ。そのきっかけは、新聞で大手水産会社の求人広告を目にしたことだった。船舶通信士、募集。そこに記された給与額が、自分のもらっている額の三倍近くであるのに驚き、たちまち邦春は心を奪われた。
 待遇面だけではない。漁業の盛んな町に生まれ、太平洋を眺めながら育った邦春は、海の遥か彼方の異国に、幼い頃からずっと憧れを抱いていた。この仕事に就けば、それが現実のものになる。そして何よりも、敬子にいい暮らしをさせてあげられる。
 相談すると、妻は不安そうな顔をした。けれども夫の熱意に打たれ、納得をしてくれた。その代わり、海へ出かけるのは埼玉の実家の近くに引っ越してからにしてほしいと訴えた。両親が傍にいてくれたら、何かと安心だから。敬子は、妊娠三か月だった。
 
 ウイスキーをグラスに注ぎ足した邦春は、ボトルを手に取り、懐かしそうな目をしてラベルを見つめる。グレンファークラス、二十五年。シングルモルトの逸品だ。二等通信士として採用され、初航海は、北海でのトロール漁。その際に寄港した英国エジンバラの居酒屋で、こいつと出会ったのだ。    その後、航海のたびに世界各国の銘酒たちと知り合ったが、やはりこいつだ、今でも付き合っているのは。香りも味も、すこぶるリッチ。敬子の親父さんも喜んでくれたっけ、こいつをプレゼントしたときは。そう思いながら、邦春の目は、遠い日の埼玉へ。

 一等通信士に昇格をした三十九歳のとき、妻の実家を新築して、両親と一緒に暮らし始めた。それが、この家だ。すでに、二児の父。まだ小学生だった男の子たちは、一年に一度だけ、邦春が帰国するたびにグングン背が伸びて、やがて中学へ、高校へ、大学へ。就職し、結婚をして、今では二人とも東京都内に家庭を築いている。
 邦春のほうは、四十五歳で通信長に昇り、パーサーと呼ばれる地位にまで出世を果たした。しかし航海の旅は、だんだんつまらないものになっていった。それは、のちの排他的経済水域につながる、漁業水域というやつが設定されたためだ。会社は遠洋漁業部門を縮小し、水産物の輸入や食品加工などを行なう総合食品会社に変わっていかざるを得なかったのだ。近海での操業は、もはや胸のときめきを、邦春に与えてくれはしなかった。
 そうして、邦春は船を降りた。五十三歳のときだ。早すぎる引退だが、退職金はたくさんもらえた。五十五歳からは、年金の受給も始まった。船乗りを手厚く保護する独特の社会保険制度、船員保険のおかげだった。今では厚生年金の制度に統合されているが。
 埼玉に帰った邦春は、家族孝行に精を出した。飛行機が嫌いな敬子を、豪華客船で海外に連れていった。ブルートレインの一等寝台車に乗って、二人で日本中を旅して周った。息子たちを、私立の大学へ行かせてやった。結婚式の費用も、それぞれに出してやった。   
 孫たちが生まれると、祝い金をたくさん贈った。それもこれも、自分が遠くの海で仕事をしているせいで、長年にわたり家族に寂しい思いをさせてきた、その償いの気持ちからだった。
 敬子の両親が逝くのに応じて、葬儀の費用をすべて賄った。家のリフォームを終えたとき、貯金が底をつきかけていることに気づいたが、なあに年金があるさと、動じなかった。
 ところが、五年前に愛妻が六十九歳で病没した際に、治療費と葬儀代で、貯金のすべてがほんとうに消えてしまった。うかつにも、自分たちの入る墓を用意しておかなかったので、敬子の遺骨は両親の眠る墓地へ。海の男というものは、陸に上がればただの河童であることを、つくづく思い知らされた。
 でも、それでいいのだとも、八十四歳の邦春は考えている。加入している生命保険の死亡保険金の受取人名義は、妻から長男に移したが、自分が死んだら遺骨はエジンバラの近海へ散骨せよと言ってある。その費用くらいは大丈夫だろう。
 年金は、天引きされる税金や保険料がだんだん増えていき、今では月に二十万円くらいの受給になってしまったが、自分と愛犬が暮らしていくには十分だ。住宅ローンはとっくの昔に完済しているし、固定資産税を毎年十万円弱支払うのみ。借金はまったくない。唯一の贅沢は、このグレンファークラスだ。ボトル一本、一万七千円ほどするが、タバコは吸わないし、女遊びをする歳でもないし、なあに、へっちゃらさ。
 もう一度、ウイスキーをグラスに注ごうとしたとき、ソファーの脇のベッドで寝ていた犬が、むくりと頭をもたげ、のそりと起き出した。三角形の耳をした白い犬、ウエストハイランドホワイトテリア。略称、ウエスティーだ。
「お目覚めかい、ベス」
 声をかけた飼い主の顔を見上げたのち、もうすぐ十六歳、人間で言えば九十歳くらいになるメスの老犬は、ソファーの前をのろのろ通りすぎ、居間の片隅に敷いてあるペットシーツへ。
 それを見た邦春は、ソファーから立ち上がり、タンスの引き出しを開け、小さな袋を取り出した。そしてベスが排尿を終え、こちらへ歩いてくるタイミングを見計らって、袋のなかから棒状のドッグフードを摘まみ出し、
「オシッコできたのー。おりこうさんだねー」
 そう言いながら、部屋の向こうへ放り投げた。そのとたん、老犬はダッシュし、獲物に飛びつき、むしゃむしゃ食べ始めた。
 ちゃんと、トイレで用を足せたときの褒美、ササミ巻きおイモの習慣は、ベスがこの家にきた生後二か月半のときから、今もなお続いている。妻の敬子が教えこんだのだが、最初のしつけは壮絶なものだった。
 なかなかシーツの上で排尿排便ができず、家のあちこちで粗相をやらかす子犬の姿に、温和な性格の敬子も、ついに心を鬼にして、アメとムチ作戦に出た。
 トイレに失敗するたびに、涙をこらえながらも妻は、子犬の片耳を強く噛んだのだ。
「アイーン!」
 子犬が泣き叫んだ。
 それでも失敗すると、こんどはもう一方の耳を噛んだ。
「アイイーン!」
 そうするうちにも、子犬は何とか成功を収め、
「ベッちゃん、おりこうさんだねー。オシッコできたのー、オシッコできたのー。ほんとうに、おりこうさんだねー、ベッちゃんは」
 と、たっぷりの褒め言葉をかけられた。
 頭と体への優しい愛撫と、ササミ巻きおイモの獲得。この効果はテキメンだった。一度成功すると、二度と過ちを犯さなくなるほど耳噛みは痛くて怖く、おイモは素晴らしく美味しかったのだ。
 褒美を食べ終わったベスに、邦春は語りかけた。
「お向かいの家に、ご夫婦が越してきたんだよ。中学校の音楽の先生ご夫婦が暮らしていたあの家が、新しく生まれ変わって、新しいご夫婦が越してきたんだよ。お友達になれるといいねー」
 邦春の言葉に、愛犬は
「フンフン」
 と、鼻息で相づちを打った。
 賢い、ウエスティー。七つの海を股にかけてきた男、清水邦春は愛犬も愛酒もスコッチなのだ。

                    

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