みかんの色の野球チーム・連載第31回
第4部 「熱狂の春」 その3
今日から、4月。
我が家の小庭の桜の花は、ここ数日の寒さのせいか、いまだ三分の咲きくらい。
だが、私の闘志は、すでに満開だった。
第39回選抜高校野球大会の4日目、本日の第2試合。
我らが津高の初戦突破を、この自分の声援力で実現させてみせるぞ、と。
その思いは、父も同じらしく、朝刊のスポーツ面の「高校野球・今日の見どころ」欄に走らせる視線は真剣そのものだ。
「先発が予想される津久見の吉良の防御率は0.74、倉敷工の小山は0.61と、投手力は互角。打撃力は、チーム打率3割6厘の津久見が、2割5分6厘の倉敷工を上回り、守備力は、ともに隙がなく堅実。総合的に見て、津久見が有利か……、ふむふむ、なかなか良いことを書いちょるわい」
満足そうに頷くと、父は美味そうにお茶を啜った。
その隣で、私はスケッチブックを開き、眺めていた。
画用紙に黒いボールペンで、新聞に載ったトーナメント表を書き写し、勝ち上がっていくチームの線を赤いマジックペンで太くなぞったものだ。そこには、勝者と敗者が上げた得点も書きこんである。昨日までの時点で、すでに10のチームに赤い印が付いている。
まず、1回戦の結果。
高知―仙台商は、4対0で高知が勝って、2回戦進出。
松山商―桐生は、3対4で桐生が勝って、2回戦進出。
熊本工―富山商は、4対2で熊本工が勝って、2回戦進出。
尾道商―三田学園は、6対11で三田学園が勝って、2回戦進出。
札幌光星―新居浜商は、0対6で新居浜商が勝って、2回戦進出。
平安―桜美林は、5対0で平安が勝って、2回戦進出。
愛知―鎮西は、0対5で鎮西が勝って、2回戦進出。
報徳学園―若狭は、9対1で報徳学園が勝って、2回戦進出。
次に、2回戦の結果。
近大付―甲府商は、1対5で甲府商が勝って、ベスト8に一番乗り。
市和歌山商―三重は、5対0で市和歌山商が勝って、同じくベスト8入り。
「どれどれ、見せてみい」
そう言って、スケッチブックを取り上げた父は、私が結果を記入したトーナメント表にじっと見入り、過去3日間の試合を思い出しながら語った。
「うーむ。やっぱあ、優勝候補に上げられちょったチームが、順当に勝ち進んじょるのう。高知、桐生、熊本工、平安、報徳学園、甲府商、市和歌山商……。平安の5‐0勝ちは、さすがは優勝本命校の貫禄を見せたけど、報徳学園も持ち前の機動力を発揮しての大勝は見事じゃった。圧巻じゃったのは、昨日の市和歌山商。左腕、野上の成し遂げたノーヒット・ノーラン試合には驚いた。このチームも、相当、上の方まで行くでえ。あとは、九州勢。熊本工も鎮西も、初戦突破じゃあけん、津高も絶対に負けられんのう」
「そうじゃあ、とうちゃん! 絶対に、負けられん! 今日勝って、ベスト8進出じゃあ!」
気合を入れて、私が応じると、
「第2試合は、たしか、12時半からじゃったのう。よしっ、太次郎! 早目に昼メシを食うて、金子電器店へ出発じゃあ!」
父と2人で、目抜き通りを歩き、カネゴン宅のある中央町へ。
商店街に至ると、道路の両脇の店はすべてシャッターを下ろしており、土曜日の昼だというのに、通りを行き来する買い物客の姿は一人もない。
知らない人が見たら、ここはゴーストタウンかと思うだろう。
だが、私たち親子からすれば、とくに驚くには当たらない風景だ。甲子園での津高の試合がテレビ中継される時間帯は、商店はもとより、会社も役場も工場も、仕事はいったんお休み。ゲームの終了とともに活動が再開されるというのが、津久見市での常識なのだ。
これまで5回出場した夏の甲子園大会の最中は、いつもそうだった。センバツへの出場が叶い、この光景が春に出現したのは初めてのことなのだが、これを恒例化したいと願わない市民は、一人としていないだろう。
金子家の茶の間に入ると、26インチのカラーテレビの前には、すでに先日と同じ顔ぶれがそろっており、先着した正真和尚が私たちを見るなり、
「いよいよ本番到来じゃのう。なんまんだぶ、なんまんだぶ」
期待に目を輝かせて、そう言った。
座布団に座り、テレビの画面を見ると、すでに両チームの試合前練習は終わり、あとは開始を待つばかりというところだった。球場のスコアボードに記された、本日の第1試合の結果を見ると、県岐阜商業が1対0で明星を降していた。
そのとき、画面が変わり、主審の号令とともに、一塁側ベンチから津高の、三塁側ベンチから倉敷工の、それぞれの選手たちが勢いよくグラウンドへ飛び出して行った。いよいよ、プレーボールだ。
先攻は、津久見。その、スターティング・ラインアップは。
1番、レフト、大田。
2番、センター、五十川。
3番、ショート、矢野。
4番、ライト、岩崎。
5番、セカンド、荻本。
6番、サード、山口。
7番、キャッチャー、山田。
8番、ファースト、広瀬。
9番、ピッチャー、吉良。
後攻は、倉敷工。その、スターティング・ラインアップは。
1番、キャッチャー、藤川。
2番、ライト、山口。
3番、ピッチャー、小山。
4番、サード、金田。
5番、ファースト、西山。
6番、ショート、田口。
7番、レフト、河本。
8番、センター、見村。
9番、セカンド、土倉。
1回の表、津高の攻撃が始まった。
頼んだぞ、オレンジ打線! 15人がそう願いながら見つめる中。
トップバッター大田の放った打球は、ショートの左へ。相手守備陣の捕球、送球、捕球よりも一瞬早く、打者の足が一塁ベースを駆け抜けた。内野安打だ。
「やった、やった! いいぞーっ、大田―っ!」
いきなりの出塁に、沸き返る茶の間だが、続く五十川の送りバントはキャッチャーへのファウルフライとなって走者を進めることができず、
「あーっ……」
と、ため息の15人。
しかし、3番の矢野が、カウント1‐3からの好球をセンター前に弾き落として、ワンナウト一塁二塁のチャンスが到来すると、
「やった、やった! よっしゃ、よっしゃ!」
茶の間は、再び活気づいた。
ここで登場の、4番、岩崎。コキーンと快音を残した打球は、三遊間をきれいに破り、二塁走者の大田がホームイン。待望の先取点だ。
「やったーっ! さすがは4番じゃーっ! 岩崎じゃーっ!」
試合開始後、早くも金子電器店球場は、興奮の坩堝と化した。
チャンスは、さらに広がった。
先制後のワンナウト一塁三塁から、一塁走者の岩崎が、すかさず二盗に成功すると、
「よっしゃーっ! この回で一気に決めちゃれーっ! なんまんだぶーっ! なんまんだぶーっ!」
正真和尚の口からものすごい絶叫が飛び出したが、続く5番の荻本は2球目のスクイズを空振り失敗。走者の矢野は、三本間で挟殺され、ツーアウト。さらに荻本、三振に倒れ、結局、初回の攻撃は1点にとどまった。
「あああ……、なんまんだぶ……なんまんだぶ……」
しおたれる和尚と、14人。
「ま、1点先取じゃあ、いいスタートじゃあ」
父の言葉に、私は気を取り直した。
1回の裏、こんどは津高の守り。
果たして吉良が無難な立ち上がりを見せるかどうか、ドキドキの面持ちで画面を見つめる15人だが、その不安は的中してしまった。
倉敷工の先頭打者、藤川に、いきなりライト線を破られる二塁打を喫し、次打者の山口にはフォアボールで、たちまちノーアウト一塁二塁のピンチだ。
「どげえしたんかのう、吉良……」
ブッチンの心配そうな声。
「初戦の初回で、緊張しちょるんかのう……」
ペッタンもまた、同様の口ぶり。
「浅田の先発の方が、良かったんかのう……」
カネゴンが呟いた、そのとき。一塁側ベンチの小嶋監督が、早くも動いた。選手交代の指示のようだ。カネゴンの言葉の通り、吉良から浅田にスイッチか?
「ニイちゃん、さっそく、勝負手か。守りの、どげな、勝負手か」
突然、口を開いたのは、カネゴンの禿げ頭爺ちゃん。
続いて、伴侶の白髪頭婆ちゃんが、
「ニイちゃん、昔から大酒飲みじゃ。右手に持っちょるあの缶ジュース、ほんとは中身はウイスキーじゃろう。大酒飲みの、野球の名人、いい考えが浮かんだじゃろう」(※注)
ニコニコ笑いながら、信じられないことを言った。これが、小嶋の酒仙伝説だろうか。
茶の間の観衆が固唾を飲んで見守る中、二塁手の荻本がグラウンドからベンチへ下がり、代わって元気よく飛び出して来たのは、背番号「12」。
「あっ! ユキにいちゃん! ユキにいちゃんじゃあ!」
予期せぬ従兄弟の登場に、思わずヨッちゃんが大声を上げた。
守備固め専任の前嶋選手を、なんと初回から起用。これが、小嶋監督の勝負手だったのだ。
(※注)本当の話である。
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