見出し画像

みかんの色の野球チーム・連載第8回

第1部 「青空の夏」 その7

 
 グラウンドの野手たち、ブルペンの投手と捕手たちが、いっせいに水飲み場へと向かう。オーイッオーイッの掛け声は消え、セミたちの合唱が勢いを取り戻した。
 ふと見ると、先ほどまでノックを放っていた人物が、片手にバットを握ったまま、こちらの方へ近づいてくる。「T」のイニシャルを縫いつけた野球帽をかぶり、両袖の裾をまくり上げた黒いアンダーシャツに、白いズボン。オレンジ色のストッキングと、黒いスパイクシューズ。
 私たちの目の前で立ち止まったその人は、とても大きな体をしていた。真っ黒い顔に、ぶっとい眉毛。黒澤明の映画に登場する、野武士のような風貌。体格ではヒゲタワシも負けていないが、風格や貫禄といったものが遥かにこちらの方が勝っているのをありありと感じとったとき、私はこの人こそ津久見市の押しも押されぬ英雄、小嶋仁八郎監督であると確信した。
「坊たち」
 とても低く野太い声で、けれども優しさのこもった声で、監督は言った。
「坊たち、野球、好きか?」
 神様のような存在。そんな人から声をかけられた私たちは、ビックリして立ち上がり、嬉しくて大声を揃えた。
「はいっ!」
 監督の問いかけは続き、5人はそのつど声を合わせて返事をする。
「坊たち、練習、面白いか?」
「はいっ!」
「坊たち、津高、入るか?」
「はいっ!」
「坊たち、甲子園、行くか?」
「はいっ!」
「よっしゃ」
 そう言うと、小嶋監督は、真っ黒い顔の筋肉を緩めて、ニッコリと笑った。
 野球通の大人たちは「鬼の仁八郎」と、その選手指導の厳しさを評するが、ほんとうはとても優しい人なんだな。そう直感した私は、これまで聞き知った彼に関する噂を、思いきって口に出そうと決心し、実行した。
「あのう、監督」
「うん?」
「あのう、監督は、ノックの名人で、狙ったところへドンピシャで打球を飛ばせるというのは、ほんとうですか?」
「ほう」
「それと、監督」
「うん?」
「それと、監督は、すごい大酒飲みで、試合中にもベンチの中でお酒を飲んでいるというのは、ほんとうですか?」
「ほほう」
 さすがに2番目の質問は失礼だったかなと内心ビクビクしていると、小嶋監督の野太い声が返ってきた。
「酒の件はのう、まあ、ちょいと内緒じゃ。じゃあけんど、ノックの件は、ほんとうぞ。よっしゃ、坊たち、ついて来い。小嶋仁八郎のノックを、見せちゃろう」
 
 小嶋監督に連れられて、私たち5人は津久見高校のグラウンドに入り、ホームベースの後方に立ち並んだ。
 そこから外野の向こう側、レフトの方角の奥の方を眺めると、高くて白いポールが1本、立っている。ポールのいちばん上には、津久見高校の校旗が掲げられ、時おり吹き起こる風にはためいている。
 いつの間にか、休憩中の選手たちが数十名、私たちの背後に集まり、みんな良く日焼けした顔に和やかな笑みを浮かべて、並んで座っている。その中の1人、前嶋選手が、こちらに向かって手を振った。それに応じるように、ヨッちゃんが手を振り返した。
「よっしゃ、坊たち、見ちょれー」
 バッターボックスに立った小嶋監督はそう言うと、ボールを投げ上げ、バットを振った。
 コキーン! という快音とともに放たれた打球は鋭いライナーとなってレフトへ一直線に飛び、白いポールの校旗の1メートル下に命中し、跳ね落ちた。
「よっしゃ、2発目、見ちょれー」
 続いて打ち出されたボールは、先ほどとまったく同じ真っ直ぐの弾道を行き、まったく同じポールの校旗の1メートル下を直撃した。
「よっしゃ、3発目、見ちょれー」
 次の打球も、また同様。3発続けて同じ標的の同じ位置にボールが当たったとき、果たしてこれが現実なのかそれとも夢でも見ているのか判断できなくなり、私たちはポカンと口を開けたままでいた。
「坊たち、驚くのはまだ早い。よう目を開けて、見ちょれー」
 その言葉とともに監督のバットから飛び出した4発目のボールは、今度はややセンター寄りに高く舞い上がり、それからククククッと左に折れ曲がって、最後はやはりポールの校旗の1メートル下を正確に捉えた。
「坊たち、特別サービスにもう1本。さあさあ、よーく、見ちょれー」
 最後の1球は、ややファウルゾーン寄りに打ち上がり、間もなくキキキキッと右に落ち曲がって、もう言うまでもなく、これまでの4球と寸分違わぬ着地点に到達した。(※注)
「どうじゃあ、坊たち、あっはっはーっ」
 監督の笑い声と、背後の選手たちから巻き起こった拍手と歓声の中、5人の小学生は、ただただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
 
「小嶋監督ち、もしかしたら人間じゃあ無えかもしれんのう」
 津高グラウンドからの帰り道、ブッチンが口を開いた。
「ほんとうじゃあ。あげな芸当、人間じゃあ、できん。神様しか、できん」
 それに応じて、ペッタンが言葉を返した。
「神様が率いるチームじゃったら、ものすごう強かろうのう」
 ワクワクした顔をして、カネゴンが続けた。
「まず、県南リーグ戦か。津高の新チームがどれだけ強えか、試されるのう」
 やや専門家ぶった口調で、私が言った。
「とにかく今日は、最高の1日じゃったわい。蛍光塗料の戦車も当たったし、小嶋監督のものすげえノックも見れたし」
 最後にヨッちゃんが嬉しそうな声を出すと、彼が左手にぶら下げている景品の入った紙袋を、みんなが羨ましそうに見つめた。
そう。ヨッちゃんが言ったように、今日は最高の1日だった。夏休みがもうすぐ終了して、また学校通いの毎日が始まるのかと思うと、私たちは少なからず憂鬱だった。
 でも、2学期の始まりとともに、津久見高校野球部の新しい活躍もまた始まるのだ。9月という月が、私たちのために、楽しみいっぱいの秋を運んできてくれるのだ。夏の終わりに、こんな気分になれるなんて、今日はなんと素晴らしい1日だったのだろう!
 しかし、現実は、そう甘くなかった。それぞれの満足を胸に、家路に着こうとしている私たちの耳に、またしても聞こえてきたのだ。忌まわしい、あの音が。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 錆びた車輪が立てる不気味な回転音は、私たちの目前の三叉路の角から突然発せられ、不意を衝かれた5人に、もはや逃げる暇はなかった。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 三叉路を左折して、とうとう姿を現した、全身闇色の老人と老朽著しいリヤカー。お願いだから見逃してくれと、私たち5人は道端の石垣に並んでピッタリ張りつき、なんとか人さらいを遣り過ごそうとした。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 石垣にへばりついた私たちには見向きもせず、フォクヤンとその道連れは、この世のものとは思えない悪臭を放ちながら、5人の目の前を通り過ぎていく。ホッとしたのも束の間、地獄のような光景が視界に飛びこんできて、私たちは言い知れぬ恐怖に凍りついた。
 古びたリヤカーの鉄柵に吊るされた、いくつものビニール袋。その中いっぱいに詰めこまれているのは、胴体からちぎり取られたゴマダラカミキリの頭部だったのだ。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 ぎい、ぎい、ぎいこ。
 無数の賞金首を積載した悪魔のリヤカーは、晩夏の落陽に向かって、ゆっくりとゆっくりと進んでいった。
 
 
 
(※注)ビリヤードの達人でもあった小嶋監督にとって、これくらいの芸当は朝メシ前。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?