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小説「けむりの対局」・第11話

勝つのは、どっちだ? 升田幸三 vs 人工知能




 ロボットが撤去された跡に、新しい座布団が置かれ、そこに早見が着座した。
 それまで彼が座っていたパソコンの前に、テーブル側から春菜が移動して、戦友が先ほど示した着手をあらためて読み上げた。
「後手、5六歩」
 その声に応じて、早見が盤上の駒をピシッと前へ進める。
「ほう。なかなか手つきがええ」
 盤をはさんで升田がほめると、
「手つきだけでは、将棋は勝てません」
 と、早見が応じた。
 凛としたその口調に、
「ふむ。こりゃあ大変な終盤戦になりそうじゃ。こっちも気を引きしめてかからんと。錯覚いけない……」
 升田がそう言いかけたとき、
「……よく見るよろし」
 と、早見が言葉を継いだ。
 このせりふは、昭和二十三年の三月に、和歌山県の高野山金剛峯寺で開催された名人戦挑戦者決定三番勝負の第三局で、大山七段を相手に必勝の局面を作りながら、最後の土壇場で受けの手を誤って痛恨の頓死負けをくらった升田八段が、思わずもらしたものだ。
 続けて、升田が
「将棋の名人であるこの私に向かって、ゴミみたいなヤツとは何事だ。名人がゴミなら、君はいったい何なんだ」
 と言うと、
「さあ、ゴミにたかるハエみたいなもんですかな」
 早見は即座にそう返した。
 この問答は、昭和二十四年の六月に、金沢市内の料亭で行われた全日本選手権戦の対局前夜に、宿敵である木村義雄名人に向かって血気盛んな升田八段がケンカを吹っかけたものだ。
 二度続けての早見の正答に、
「おうおう。ワシのことを、よう知っちょる」
 と升田が言うと、
「あなたの著書は、すべて読みました。いちばん印象的だったのは、ポナペ島の夜空に向かって、死ぬ前にもういちど木村名人と将棋を指したい、月が連絡してくれるなら通信将棋で戦いたい、と願ったくだりです。いまではもう世界中の愛好者が楽しんでいるインターネット将棋というものを、すでに七十年も昔、通信将棋という言葉で思い描いていた。その先見性は、評価に値します」
 早見が、そう応じた。
「ふっ」
 小さく笑うと、升田は、盤上に次の手を指した。
 攻撃の主役である飛車を、とうとう敵陣の奥深く、8一の地点に成りこませたのだ。戦友の玉は、にわかに危うくなった。
「後手、2四飛」
 数分ののち、戦友の着手を読み上げた春菜の声に応じて、駒台に置いた持ち駒のなかから飛車をつまむと、それを早見は盤上に打ちつけた。升田の王を縦から攻略しようという手だ。
「どうじゃ。人間どうしで指したほうが、よっぽど面白かろ」
 そう言うと、升田は駒台にある唯一の持ち駒の金をつかみ、自陣の1七の桝目に叩きつけた。王を守る、鉄壁の金打ちだ。
 その手が指されたとたん、早見の白い顔が、みるみる青みを帯びていった。それは、戦友の、旗色の悪さの表れだった。
「信じられない……。コンピュータ将棋のなかでも、プロの棋士に対しても、無敵を誇っている戦友が、このような苦戦を強いられるなんて……。しかも、香車落ちのハンデを与えられて……」
 しぼり出すように早見は言い、
「どうして、あなたは、こんなに将棋が強いのですか」
 敵は、答えた。
「鍛えが違う。そういうことだ」
「鍛え……?」
「心の鍛えが違うのだ。ワシは、南洋の戦線で、来る日も来る日も死の恐怖にさらされるうち、怖いものがなくなった。おのれの心が一つの境地に達したのだな。死生命あり、富貴天にあり」
 升田の言葉に、
「コンピュータに、心などありません。将棋は、ただのゲームです。戦争とは違うでしょう」
 早見は、反論した。
 だが、升田は、教えさとすように言った。
「心なくて、何の将棋か。命なくて、何の勝負か。将棋盤の下に、毒薬を置いておく。負けたほうが、それを飲む。そういう勝負が、君にはできないだろう」
 早見は、黙りこんだ。
 対局場外の、大型ディスプレイ。インターネット生放送の中継画面には、視聴者からのコメントが白い文字になって、激しい勢いで流れている。
 
「早見―っ。升田先生の前に座るなんて、百年早えんだよwww」
「いーや、百万年早えーよーっ」
「金打ち、凄すぎ! 先生、強すぎ!」
「コンピュータ将棋、フーゼンのトモシビーッ」
「それ行け、やれ行け、もっと行け。メメクロ」 
 
 
 
 
 
 

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