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小説「ころがる彼女」・第23話

 短い銀髪を、十月の潮風が撫でさすっていく。
 山下公園のベンチに座った元船乗りは、もはや誰にも相談できなくなったことを、海に訊きにやってきたのだ。
 自分は、これから金のやりくりを、どうしていったら良いのだろうか。
 彩雲ホームパークスの価格は、こちらの希望通りに五十万円安くなり、先月の十三日に第一回目の手付金契約を終えた。第二回目の本契約は、今月の二十四日に行なわれる。
 その決済に必要な金額が、四百万円足りないのだ。
 足りないことは、最初から分かっていた。だが、金なんて何とでもなるさという、船乗り気質の邦春だ。ここ横浜港から半年くらい船に乗れば、一千万円くらいの収入になる。金なんて、海がいくらでも与えてくれる。船が、好きなだけ稼がせてくれる。
 だが、それは、三十年以上も昔に終わった夢だ。現実に目を向ければ、自分は年老いた年金受給者でしかない。あんなに贅沢をさせて育ててやった二人の息子たちにも、二百万円ずつ金を貸してくれないかと昨日、電話で頼んでみたが、ものの見事に断られてしまったではないか。まあ、使途をはっきり告げなかったのだから仕方がない。人妻と駆け落ちして住む家を買うためだなんて、とても言えやしなかった。
 便利屋の宙丸には、すでに藤川による家の優遇買取りを通して、百五十万円を工面してもらっている。もうこれ以上便宜を得ようと頼むのは、厚かましすぎるというものだ。
 家を明け渡すのは新居に越してからで構わないと、藤川は言ってくれており、その好意に甘えさせてもらっている。だが、このままでは、住むところさえ失ってしまう、自分とベスは。
 唯一、邦春の心を明るくしているのは、ベスの容態が落ち着き、回復の兆しを見せ始めていることだ。週に一度受けていた点滴が、二度になり、三度になり、四度になったときには、もはや栄養と水分補給のすべてを静脈注射に委ねていたのだが、愛する老犬は、そこで踏みとどまった。長い残暑がようやく和らいでいったころから点滴は週に三度に減り、今では二度になった。少しずつではあるが自力で食べ、飲むことができるようになったのだ。奇跡の生命力だと獣医師は絶賛し、邦春を喜ばせた。けれど、そのためにかかった治療費は、約二十万円。一か月分の年金の、ほぼすべてを邦春は失った。
 苦境だ。苦境だが、目の前の海は、穏やかに凪いでいる。まあまあ、そんなに慌てなさんな。焦ってみても、始まるまい。なるようにしか、ならぬのさ。慌てる焦るは、陸の河童のやることだ。なあ邦春よ、おまえも海の男なら、こういう諺を知っておろう。待てば海路の日和あり。
「待てば海路の日和あり、か」
 邦春がその諺を反芻していると、上着のポケットのスマホが鳴った。電話だ。弓子からだ。
「はい。こちら、海の宿」
 冗談めかして言ったのだが、弓子の声は真剣だった。
「大変なの。福岡の叔父さんが死んじゃったの。化物蜘蛛の叔父さんが死んじゃったの。いつ死んだのか分からないの。死んで何週間も経って発見されたからなの。新聞配達の人が叔父さんのポストに新聞がたくさん溜まっているのを不審に思って警察に知らせたの。大家さんが立ち会って警察の人たちがドアをこじ開けてなかに入ったらもの凄い異臭がしたの。そしたら叔父さんが布団に寝たまま死んじゃってたの。腐敗がすごく進んでて布団から体液が畳に染みこんでたの。ここまでの話は叔父さんの住んでた福岡のQ市の市役所の人から連絡を受けた幸代ちゃんから聞いた話なの。大分に住んでる従姉の幸代ちゃんから昨日聞いた話なの」
 一息ついて、弓子は話を再開した。
「でね。これから先は私のお兄ちゃんから今朝かかってきた電話で聞いた話なの。お兄ちゃんはずっと熊本で司法書士をやっててそれで幸代ちゃんが対応をお願いしますってことで代わりにお兄ちゃんがQ市の市役所の人と話をしたの。そしたら叔父さんは奥さんも子供もいなくて一人暮らしのまま孤独死したってことがQ市と警察の調べで分かったの。とりあえず遺体の処理をしなくちゃならないからお兄ちゃんがQ市の市役所の人に葬儀社を紹介してもらって火葬をお願いしてお骨を大分の奥津家の菩提寺えーと何てったっけなーそうそう夕泉寺へ運送業者さんに運んでもらうように手配したの。トラックでお骨が届くだなんて、驚きよね。夕泉寺のお墓にはお爺ちゃんもお婆ちゃんも伯父ちゃんも伯母ちゃんも眠っててみーんな叔父さんのことを嫌いなはずなんだけどこうなったらもう入れてあげるしかないわよね」
 もう一息ついて、弓子はこう言った。
「ああ、どこまで話したかしら私。どうやって説明したらいいのかいま頭が混乱しちゃってて分からないんだけど、お兄ちゃんがね、すぐに大分に帰ってこいって言うの。戸籍謄本と実印と印鑑証明書を持ってすぐに帰ってこいって言うの。あのね、よーく聴いて。叔父さんには貯金が三千万円以上あって、奥さんも子供もいなくて、遺言書も見つからなかったの。だからそれを相続できるのは、私とお兄ちゃんと、いとこたち、合計六人なの。一人約五百万円ずつ、相続することになるの。それでね、私いま羽田にいるの。往復の交通費や宿泊代は主人から出してもらったから大丈夫。遺産相続のことは内緒にしてあるからそれも大丈夫。あ、もうすぐ大分行きの便が搭乗開始になるわ」
 邦春は、スマホの声に力をこめた。
「蜘蛛は蜘蛛でも、お釈迦さまの蜘蛛の糸だったんだね! 叔父さんにありがとうだ! 途中でぷつりと切れないように、慎重に慎重に糸をのぼっていくんだぞ!」 


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