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小説「ころがる彼女」・第12話

 邦春は歩く。ずんずん、ずんずん、歩き続ける。
 朝のウォーキングが、午後になってしまったが、それにも構わず彼は玄関を出て、梅雨の晴れ間のなかへ足を踏み出したのだ。
 気温も湿度も高い。汗が噴き出し、首筋を流れ落ちていく。だがそれは、いつものウォーキングで感じる、爽快な汗ではない。肌にへばりつく、後悔の汗だ。
 今朝の七時ごろに弓子が帰ったあと、ひとり残された邦春は、家のなかに居たたまれなくなった。
 妻の敬子が、どこからともなく自分に視線を注いで、あの行為を非難してくる。よくも私を裏切ったわね。私が死んで五年が経ったから、もうほかの女に手を出してもいいころだと思ったんでしょ。そう言ってくる気がしてならなかった。
 ベスでさえ、朝の食事の際に、どこかよそよそしい素振りを見せた。私を寝室に閉じこめたまま、夜中にいったい何をしていたの。私が傍にいたらできないことを、こそこそ、やっていたのではないの。超能力の犬だから、分かるのよ、私には。
 亡妻にも、愛犬にも、きょうは顔向けができない。だから、睡眠不足にも午後の暑さにもかかわらず、家を出たのだ。健康増進ではなく、現実逃避のウォーキングに。
 邦春は歩き続ける。情事の記憶を振りきろうと、ずんずんずんずん、早足で歩き続ける。
 あれはたしか三月だったから、まだ平成の時代のことか。家を訪れた弓子の夫が、妻の病気について打ち明けた。そのときに見せた沈痛な表情が、きょうは鮮明に脳裏に浮かぶ。この自分を信用できる人間だと見こんで、彼は告白したのだ。今後ともどうぞよろしくとの気持ちをこめて。なのに、どうだ。そんな彼をも裏切り、その妻と、よろしく関係を持ってしまった。元号が変わると、人間まで変わってしまうのか、この人妻泥棒め。
 邦春は歩き続ける。いくら速く歩いても、犯した愚を頭から消し去ることができないのは、もう分かった。けれど、そうせざるを得ないのだ。弓子の裸身が追いかけてくるから。
 夜遅くに現れ、夫との交接話を持ち出し、エロチックな肢体で自分を誘惑してきた彼女の一連の行為が、双極性障害の躁状態に見られる症状のひとつ、性的逸脱行動というものであることを、すでに本から得た知識として、自分は持っていた。
 なのに、仕掛けてきた罠に落ちたのは、自分の意図した通りではなかったか。弓子の病気を、わざと利用して、まんまと果実を得たのではなかったか。
 もしもそうだったとしたら、この卑怯者め、いつからそんな汚い人間になり下がったのだ。清水邦春よ、おまえは誇り高き海の男ではなかったのか。 海神ポセイドンが、大海原から叱りつけてくる。
 しかし。邦春は歩きながら考えた。
 弓子の誘いが、百パーセント病気によるものでなく、そのうちの十パーセントでも、いや、五パーセントくらいでもいい、この自分に対する好意から成っていたとしたら、どれだけ嬉しいことか。
 自分が彼女に恋をしている、そのわずか十分の一でも、二十分の一くらいでもいいから、彼女が自分に恋心を抱いてくれているとしたら、どんなに幸せなことか。
 いや。邦春は、頭を振った。
 何を考えているんだ、いったい。確かに弓子は、五十三歳の大人の女性。だが、自分はそれより三十以上も年上の、八十四歳のジイさんだ。親子ほども年齢差があるのに、恋愛関係など成り立つわけがないじゃないか。
 それに。だいいち、彼女は既婚者だ。れっきとした、西原家の奥さまだぞ。そんな不倫が、世のなかに認められるとでも思っているのか。どこかの国の政治家や芸能人みたいに週刊誌に暴かれなくても、自分の望んでいることは、不法行為だ。少しは頭を冷やしたらどうだ。
 頭を冷やそうにも、涼しい風など吹いてこない。
汗だくになって自宅の門前に帰ってくると、邦春は向かいの弓子の家を見た。あの家のどこで、なにを、今ごろ彼女はしているのだろうか。
 弓子の家と自分の家を隔てる、一本の道。そこへ一台の車が滑りこんできて、止まった。
 ドアから出てきた西原家の主は、門扉を開こうとして振り向いたとき、邦春の姿に気づいたらしく、
「こんにちは。きょうは良いお天気ですね」
 そう声をかけてきた。
「こ、こんにちは」
 うろたえ気味に挨拶を返した邦春は「出張お疲れさまでした」の言葉が口から出かけ、すんでのところで言いとどまった。


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