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将棋小説「三と三」・第11話

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 全四段登龍戦の残り三局を、幸三は全力で戦った。一生懸命に、戦い続けた。戦って勝利という結果を積み重ねていくことは、阪田や谷ヶ崎との約束を果たすためでもあったし、何よりも自分自身の棋道の未来を拓き、前進をしていくためであった。
 だが、ここへ来て、新たな発奮の材料が加わった。若子だ。銀座三丁目の喫茶店、腰かけ銀の主である若子に、五段に上がるだけでなく、将来は名人に、日本一の将棋指しに出世してみせると公言したのだ。ならば、その通りにしなくてはいけないではないか。
 幸三は勝って昇段を決めて、再び若子の店へ行き、彼女に会って、褒めてもらいたかった。六戦全勝して、彼女の前で胸を張りたいと思った。上位三名が昇段という規定だから、仮に五勝一敗でも五段にはなれる。しかし、一つでも負けて若子に会いにいくのだとしたら、とても恥ずかしい気がした。ずいぶん情けないことのように思えた。将棋を全部勝って、びっくりするほど強い自分という棋士を、若子に見せたかった。
 どうして、このような気持ちになったのだろう。それは、幸三自身にも分からない。なぜなら、こういう気持ちになったのは、初めてのことだから。女性の存在によって、自分の気持ちがこのように働くのは、生まれて初めて経験することだから。頭ではなく、心のほうから湧いてくるのだ、この思いは。とすれば、理性ではなく、感情なのだろうか。不謹慎かもしれないが、もはや将棋に勝つことではなく若子に会うことが主であって、そのための資格取得の手段が将棋に勝つこと、すなわち従なのだと、理性は否定しても感情は肯定するのだ。
 その感情が、心の中の導火線を通じて、闘志を強く燃やし、燃焼によって生じた力が指先から駒に伝わっていった。盤上狭しと動き回る駒たちの連携する破壊力は、松下四段を圧倒し、畝四段を屈服させ、最終戦の大和久四段の玉をも追いつめていった。大和久は関東期待の二十二歳の新鋭棋士だけあって、形勢が二転三転しながらの長い将棋となったが、夜戦に入ってから勝機をつかんだ幸三は、一気に敵の玉に迫ったのだ。そして、百八十一手を費やし、とうとう相手を投了させた。やった、全勝、五段昇段。けれども疲れた、クタクタだ。
 先月の初旬に上京し、一か月をかけての六連戦。打倒関東の一念で強気に突っ走ってきたが、十八歳の若さとは言え、体には疲労が蓄積していた。最後まで勝ち続けることができたのは、途中で出会えた若子のおかげかもしれない。きっと、そうに違いない。ああ、若子に会いたい。会って、自分の成し遂げた快挙を報告したい。素晴らしい男だと、認めてもらいたい。称賛してもらいたい。だが、今夜はもう遅い。明日は東京駅を午前十時五十分発か、遅くともその次の十一時二十分発の汽車に乗って、大阪へ帰らねばならない。その前に、銀座へ立ち寄って、少しの時間でも彼女に会えるだろうか。
 
 将棋大成会本部の宿泊室に戻ると、幸三は着替えをし、布団に潜りこむなり、泥のように眠り……
 ……目が覚めると、時計の針はすでに午前九時半を回っていた。イカン! 跳ね起きた幸三は、洗顔もそこそこに再び着替えをし、行李鞄に荷物を詰めて部屋を飛び出した。
 電車に乗り、銀座四丁目の停留所に着いたときには、もはや十時半だ。電車を飛び降り、松屋呉服店の脇を全力疾走で駆け抜けて、腰かけ銀のドアを開けると、
「いらっしゃいませ!」
 エプロン姿の綾が出迎え、
「六戦全勝で五段昇段、おめでとうございます!」
 と、満面の笑みを浮かべて言った。
「えっ?」
 幸三は驚いた。
「どうして、それを?」
 そのときだ、
「これを読んで、知りましたの」
 と、涼やかな声とともに、憧れの女性が現れたのは。
本日の装いは、露草色のプリーツスカートに、白いシルクのブラウス。初めての出会いから、まだ十日も経っていないのに、若子の顔はとても新鮮に見えた。会いたい会いたいと幸三が焦がれていたその容姿は、以前にも増して美しく、よりいっそう澄んだ笑みを、その美貌は湛えていた。
 彼女の両手は、胸の辺りで何かを掲げ持っていた。幸三が目を凝らすと、それは木製の写真立てだった。茶色いその額縁の中には、ただの写真ではなく、文字の配列とともに長辺が十五センチほどの四角い紙片となってモノクロの顔写真が収められていた。
 幸三は、またも驚いた。それは、自分自身の写真だったのだ。
「十八歳で五段」
「少年名棋士出現」
「本社主催全四段登龍戦 素晴らしい六戦六勝の記録」
 といった大見出し、中見出し、小見出しに続いて記事があり、記事の上に配置された写真を見て、幸三は思い出した。昨夜の対局の終了後、フラッシュを焚かれて撮影されたことを。
「今朝、新聞を開きましたら、この記事が載っていましたの。さっそく表通りの伊東屋文房具店で写真立てを買ってきて、切り抜いた記事をこうして飾りましたのよ」
 幸三は沈黙した。あまりの感激に、言葉を失ったのだ。
「本社が棋譜を独占掲載している全四段登龍戦もいよいよ終局に近づいてきたが、この一戦において連戦連勝、遂に全勝の成績をあげ輝かしい五段昇格を約束された天才的な少年棋士がいる。大阪代表の升田幸三君がこの栄えある全勝棋士だ……」
 若子は嬉しそうに記事を読んで聞かせ、
「写真は升田幸三君、ですってよ」
 と、隅々まで朗読してくれた。喜びと照れで、幸三は顔が紅潮していくのを覚えた。
「お店のカウンターテーブルに、これを飾っておきますわ。升田さんの記事が出るたびに、新しい写真立てを買って収めていくことにしましたの。たくさんの写真立てを並べられるように、これからもますます励んでくだいましね」
 幸三は顔から火が出そうになったが、出たのは焦りの声だった。
「あっ、イカン!」
「どうしまして?」
「これから大阪に帰らんとイカンのです。東京駅を十一時二十分発の汽車に乗らんとイカンのです。あっ、もうすぐ十一時じゃ!」
「まあ、急がないと」
 そう言うと、若子は店の奥へ行き、何かを紙袋に入れて戻ってきた。それを幸三に差し出しながら、
「ドーナツよ。汽車の中で召し上がって」
 と、言葉を継いだ。
 それを嬉しそうに幸三は受け取り、
「おおきに! 朝飯も食べとらんで、腹ペコじゃったんじゃ!」
 と大声で礼を言ってから、こんどは小声で
「あのう……ここの住所を教えてもらえんじゃろうか……」
 手紙を書きたくなったときのために、とまでは言い出せずにモジモジしていると、
「綾ちゃん」
 と若子が声をかけ、すぐさま娘がエプロンのポケットからマッチ箱を取り出して、幸三に差し出した。
 幸三が受け取ったマッチ箱の表面には、丸テーブルの椅子に座った洋装の美人画が描かれ、上部に「腰かけ銀」の店名がデザインされていた。裏面を見ると、店の住所と電話番号が記されている。
「竹久夢二画伯の作品を使わせていただきましたのよ。先年、ご病気でお亡くなりになって、とても残念ですわ」
 若子の語る画伯の名前は知らなかったが、特別なマッチ箱であることだけは幸三にも良く分かった。なぜなら、これは自分と若子をつなぐものだから。東京と大阪に離れていても、二人を結んでくれる大切なものだから。
「おおきに! また来ますけん!」
 手を振る若子と綾を後にして、幸三は東京駅へ駆けていった。
 
            

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