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小説「サムエルソンと居酒屋で」第11話

 翌朝十時ごろ、実花子は英也の下宿へ電話をかけた。電話番号は留美に教えてもらっていた。
 五回目のコールで相手が出て
「はい、新開荘です」
 と返事をした。老人の声だった。
「私、山内と申します。恐れ入りますが、そちらに下宿している瀬川英也さんをお願いいたします」
 実花子がそう言うと
「瀬川さーん、瀬川さーん、電話だよーっ!」
 と、老人らしからぬ大声が聞こえたので彼女は驚いた。
 やがて
「はい、瀬川です」
 という声がして、実花子はすぐに言葉を返した。
「私です。瀬川さん、だいじょうぶ? 風邪引いたりしてない?」
 すると
「ゴホッ、ゴホッ。あーっ苦しい! 助けてえ!」
 という悲鳴が実花子の耳に届いた。
「せ、瀬川さん! 私のためにごめんなさい! お願い! 今すぐお医者に行って!」
 彼女が懇願すると
「なーんてね。風邪なんか引いてないよー。実はあれから歌舞伎町に取って返し、サウナに泊ったんだ。冷えた体を蒸風呂で温めて、濡れた衣類はコインランドリーで洗って乾かした。そしてぐっすりと眠り、朝ご飯も定食屋で食べて、体調は快調そのものさ。さっき帰ってきたばかりなんだ」
「ほんとうですか?」
「ほんとうだよ。ごめんね、冗談言ってびっくりさせて」
「あー良かったー。私、すっごく心配してたんですよ。だって、あんなにびしょ濡れだったんだもの。でも、サウナを思いつくなんて、さすがは瀬川さん、頭いいですね」
「いやあ、それほどでも」
「瀬川さん」
「うん?」
「きょうは、なにをして過ごすんですか?」
「べつに、予定はないけど。日曜日だからサムエルソンの勉強もお休みして、一日中ごろごろしていようかな」
「瀬川さん」 
「なあに?」
「私、今日、瀬川さんの下宿に行ってもいいですか?」
「えっ、ここへ? なにもない殺風景な四畳半だよ。建物もボロっちいしさ。あ、大家さんに聞かれたかな」
「聞こえたよ」
 と、老人の声。
「あ、すいませんすいません、冗談です」
 英也は声のボリュームを下げた。
「べつに来てもいいけど、なにか用事でも?」
「とくに用事はないんですけど、ファーストキスを捧げた人の住まいに行ってみたくて」
「あ、ああ、そうだね……。行ってみたいよね……。知りたいよね、どんな生活をしているのか……。分かりました。ところで場所はご存じなの?」
「新宿区喜久井町までは留美さんから聞きました。番地とかは分からないんですけど。なにか目印みたいなものはありませんか?」
「えーとね。まず東西線の駅の出入口2から階段を上がって地上に出ます。それから右方向に歩いていくと、そこからさらに右に曲がっていく坂道になってるの。『夏目坂通り』っていう名前の。『夏目漱石誕生之地』と刻まれた黒い石碑があるから、僕はそのへんで待ってるよ。何時ごろに着けそう?」
「昨夜は私も雨に濡れちゃったので、これからスカートやブラウスを洗濯しなくちゃならないんです。なので二時ごろでいいですか? お昼は済ませて行きますので」
「了解。じゃあ、スヌーピーの折りたたみ傘を乾かしながら待ってるね」

 部屋の片づけや掃除などをしたのち、遅い昼食を近くの中華屋でとった英也が夏目坂を下りていくと、オーバーオール姿の実花子が漱石の石碑の前で説明板の文章を読んでいるのが見えた。近づいていっても英也の姿には気づかず、最後まで読み終えたのち
「あいーっ、じなーごどなー」
 と、奇妙な言葉を発した。
「さっそく翻訳してもらおうか」
 そう言いながら英也が彼女のそばまでくると
「あっ、聞かれちゃった。誰もいないと思って遠慮なく秋田弁で漱石の石碑を見た感想を口にしたんだけど、瀬川さん、すぐ近くにいたんだ。『あいーっ、じなーごどなー』は『うわーっ、立派だなあ』という意味です」
 実花子が恥ずかしそうに、そしてうれしそうに話した。
「大分弁だとこんな感じかなあ」
 英也がそう言い
「おりょーっ、見事じゃあのう」
 と発声すると
「やっぱりそっちのほうが標準語に近いですね」
 と、実花子。
 そして坂道を歩き始めた英也と腕を組むと、彼女は昨夜のように体を密着させ、歩調を合わせた。知り合って一か月。刈り上げ頭も少しずつ髪が伸び、いい感じのショートヘアになってきた。もう眼鏡をかけていないので、くりくりと愛らしい目をした色白の顔は、充分すぎるほど美しく見える。昨日はお金を使いすぎ、これから節約生活に入らなくてはならないけど、この娘に喜んでもらえたのだからそれもいいさと英也は思った。
 下宿屋の前に至ると、玄関のドアにいちばん近い窓を指さし
「これが僕の部屋の窓」
 と、英也。さらに
「出入口もトイレも流しも、みーんな共用。それが下宿というものだよ」
 と言葉を継ぐと
「今朝電話したとき、お爺さんが出て『新開荘です』って言ってたけど」
 実花子がそう言った。
「ああ。あの人は大家さんでね、名前を新開小太郎という。その新開さんが経営する下宿屋だから、ここの正式名称は新開荘なの。電話の声は不愛想だけど、根は心の優しい人でね。昔は床屋さんをやっていたんだって。趣味は将棋で、ときどき相手をしてあげると、饅頭や羊羹をくれるんだ。ま、向こうのほうがすこし強いんだけど」
 そう応じると、英也はドアを開け、実花子を家屋の中へ導き入れた。それぞれが脱いだ靴を玄関棚の中に入れ、床に上がって数歩進むと、すぐ左側に英也の部屋があった。引き戸を開けると、彼は部屋の中に入り、手招きで実花子を呼んだ。
 彼女が覗くと、正方形の四畳半の中心にはコタツテーブルがあり、大小不揃いの座布団が四枚配置されている。冬になると布団が乗っかり、電気コードがコンセントに差しこまれるのだろう。テーブルの上に置かれた缶入りファンタオレンジとグレープに、来客への心づかいが窺える。
 次に目を引いたのは、部屋の角に設置された黄色い衣装ケース。「ファンシーケース」といって、スチールパイプの骨組みにビニールを被せたものだ。その上には、スヌーピーの傘が広げられ置かれている。
 もう一方の角には、いくつかのカラーボックスが縦横に積んだり並べられており、小さなテレビやラジカセや書籍などが収納されている。そのほかは押し入れがあるだけだ。
「冷蔵庫は?」 
 部屋に入った実花子が訊くと
「ないよ。だって自炊しないもの」
 と、英也。
「なので共用の流しは、僕にとってはただの洗面所。まあまあ、座布団へどうぞ」
 そう言って彼女を座らせ、部屋の戸を閉めると
「この部屋は南向きでね、とても明るいんだ」
 得意そうに説明しながら彼がカーテンを開くと、あいにくの曇り空。それでは音で部屋を明るくしようと、ラジカセのスイッチを入れ、FM放送を流し始めた。
 それから実花子の隣の座布団に座り、ファンタを勧めると、彼女はオレンジのほうを選びとり、飲みながらカラーボックスのほうを眺めている。そして
「教科書がほとんどないんですね。サムエルソンの上下巻が目立っているだけ」
 と、痛いところを突かれたので
「今は語学や一般教育科目の履修が中心だけど、来年からは専門教育科目が増えていくので、それに伴ってあの本棚も賑やかになっていくだろうね」
 ファンタグレープを飲みながら、苦し紛れの返事をした。
 そうするうちにも実花子がくつろいだ表情になり、英也もまた落ち着きを取り戻したところ、いきなりラジカセから
「ララーラーララララララー」
 と、騒がしい歌声が聞こえてきた。
「あ、これ、こないだのFMでも流れてた『勝手にシンドバッド』っていう曲だ。青学の学生たちがバンドを結成してやってるらしいよ。『サザンオールスターズ』っていう名前のバンド」
 英也がそう言うと
「早口すぎて、なにを歌っているのか分かんない」
 と、実花子。
「そのハチャメチャでノリノリのところが僕は好きだな。『いま何時そーね大体ねー』っておもしろいじゃん。実花子ちゃんは、どんな曲が好きなの?」
「私はハイ・ファイ・セットの『フィーリング』とか……」
「おっ、去年大ヒットしたやつだね。カセットあるよ。聴こう聴こう」
 座布団から立ち上がり、ラジカセを手にした英也が操作をすると、先ほどとは一変してスローなテンポのラブソングが流れてきた。そのきれいなメロディーに合わせるかのように、実花子が話し始めた。
「私、いい奥さんになれるかしら、瀬川さんの」
「え……?」
「初めてのキスをした人は、もうフィアンセと同じですものね」
「そ、そ、そうかなあ……」
「もちろんさって、どうして言ってくれないの? ひょっとしたら遊びで私と付き合っているの?」
「そ、そんなことはないけど、恋愛には遊びの要素もあっていいんじゃないかなあ。さっきの曲も『ただ一度だけのたわむれだと知っていたわ』って歌詞で始まることだし……」
「それとこれとは別!」
 実花子は強い口調でそう言うと、真剣なまなざしで英也の顔を見つめた。ラジカセからは、引き続きハイ・ファイ・セットの歌が流れている。そのほとんどは松任谷由実の曲をカバーしたものだ。卒業写真、冷たい雨、スカイレストラン、中央フリーウェイ、海を見ていた午後……。
 再び実花子が口を開いた。
「瀬川さん、初めて寮まで送ってくれたとき、どうしてそんなに経済学の勉強に一生懸命なのって訊いたでしょう?」
 英也は応じた。
「うん。そしたら君は、父への抵抗ですって答えた。意外な言葉だったから、よく覚えているよ」
「その抵抗の意味を説明します。前にもすこし話したけど、私は四人姉妹の長女で、父は木材会社の二代目経営者。秋田のスギは、青森のヒバ、木曽のヒノキと並ぶ日本三大美林のひとつで、私の故郷は林業がとても盛んなの。ところが跡継ぎがいないので、長女である私が婿養子をもらわなくてはならないの」
「どうして君が? 別に三人の妹さんのうちの誰かだっていいじゃない」
「長女の責任。それがとても重要なことなの、東北では」
「長女の責任ねえ。まあ、うちの兄貴も、初孫だ長男だって子供のころから特別扱いされていたように覚えてるから、分からなくもないけどね」
「そう、私は初孫でもあるの。みんなに可愛がられてとても大事に育てられたので、その恩返しに、将来は親が決めたお婿さんを迎えなければならないってことは、中学生のころから意識していたんです。それから女子高に進んで、地元の短大に通いながら花嫁修業をというコースが目の前に見えたとき、このまま山内家のために自分の青春を捧げるのは辛すぎる、一度くらいは故郷を離れ、東京の大学で四年間を過ごしたいって思うようになったの」
「分かる分かる、その気持ち」
「悩んだすえ父に話したら、しぶしぶ承諾してくれました。でも、いろいろな条件を付けられちゃった。共学ではなく女子大に進むこと。アパートではなく寮に住むこと。毎月の仕送りは少なくても我慢すること。アルバイトは絶対にしないこと。夏休み、冬休み、春休みには必ず帰省すること……」
「男が寄りつかないようにするためだな。すでに寄りついてるけど」
「そして父は最後にこう言ったの。『もしも経営者に欠かせない経済学の学識を修得できたなら、おまえに跡を継がせてやるよ。そのときは、自分の好きな男と結婚すればいい。まあ無理だろうがな、女子大じゃ。政宗大のような一流大学じゃなければ』って」
「政宗大って、仙台の?」
「そう。国立の名門大学。そこを卒業していることが、父の自慢なの」
「ふうん」
「それで私は今、サムエルソンの経済学を必死に勉強しているわけなの。すなわちこれが父への抵抗なんです」
「なーるほど」
 話をする実花子の顔が近づいてきた。
「でもね。私、瀬川さんと知り合って付き合い始めて、こう考えるようになったの。別に自分じゃなくても、自分の恋人が経済に強ければそれでいいんだって。いっしょに秋田に帰って夫婦で会社を経営できれば、それがいちばんいいんだって」
「そ、そ、それは、僕に婿養子になれってこと? 遥かかなたの秋田の地に骨をうずめる覚悟をしろってこと? ちょっと待ってよ、僕はまだ二十歳だよ。この先どういう人生を歩むか、学生時代にいろいろ考えたいし、そもそも僕たち二人は知り合ってまだ一か月なんだから」
「瀬川さん、次男だし身軽でしょ。私のことを心から愛してくれるのなら、お願い、秋田に来て」
「愛だなんて、まだアレをしてもいないのに」
「ソレが目当てだったの? 中野サンプラザで会ったときから」
「そういうわけじゃないけど、やっぱりアレは大切だし、二人の愛を証明するものだし」
 実花子は英也から離れ、座布団に正座をしてから言った。
「とにかく私は、夏休みになったら秋田に帰ります。帰ったら、瀬川さんのこと、両親に話してもいい? すごく経済に強くて次男で大隈大学政経学部の二年生の人と清い交際をしてるってこと」
「まあ、話すくらいならいいけど」
「うれしい! 父も母もびっくりするわ。だって大隈大の政経で次男なんですもの」
「あのう、実花子ちゃん。訊いておきたいんだけど、君が好きなのは、瀬川英也? それとも大隈大の政経? それとも次男であること?」
「もちろん、ぜーんぶ!」
 そう答えると、再び実花子は、英也のほうへひざを進め、顔を近づけ、両目を閉じた。その愛らしいしぐさに触発され、英也は長いキスをした。それが終わると、実花子の目が開き、続いて開いた唇から言葉が出てきた。
「やっぱり温かーい。瀬川さんのキッス」

              

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