見出し画像

将棋小説「三と三」第35話(最終話)

阪田三吉と升田幸三。昭和の棋界の、鬼才と鬼才の物語。




 蝉しぐれの道を、幸三は歩いていた。
 昭和二十二年七月十四日、東京・目黒の将棋大成会本部で行なわれたA級順位戦。幸三は土居八段との一戦に勝利し、出だし二連勝と、幸先のよいスタートを切った。その対局が早く終わったので、表へ出て、ぶらぶらと散歩をしているのだ。
 川沿いを進みながら、幸三は先月終わったばかりの第六期名人戦のことを思い起こしていた。
 順位戦を勝ち上がり、木村名人に立ち向かったのは塚田正夫八段だった。三十二歳の気鋭の挑戦者は、七番勝負を四勝二敗で制し、新名人に輝いた。
 あの三番勝負で幸三が与えた痛手の癒えぬまま、名人戦に臨んだ木村は、塚田に止めを刺されてしまったのだ。五期にわたって独占していた名人を失冠した彼は、A級に落ち、リーグ戦の将棋を指す立場に置かれていた。
 こうして、幸三が名人位の奪取をもくろむ相手は、木村から塚田に変わった。その新名人と自分とは、因縁があった。今を去ること十年前。塚田が六段、自分が五段のときに、東西若鷲戦という棋戦で初めて対局したのだ。
あのとき、風邪を引き、高熱に苦しみながら指した自分は、惨敗した。そして急性肺炎に罹り、意識を失って病院に運ばれた。ベッドの上で死線をさまよっていた自分に、寝ずの看病をしてくれたのが、若子だった。
 塚田との因縁とは、そういうものだ。今となっては懐かしい出来事だが、元気に暮らしているだろうか、若子は。結婚をして、もう五、六年が経つ。
 川面を吹きわたる風に心地よさを感じつつ、幸三は歩いていく。その涼風に誘われて、道行く人々は皆、川伝いに往来をしている。親子が、連れ立って歩いてくる。日傘を差した母親と、麦藁帽子を被った娘が、幸三とすれ違う。そのとき、声がした。
「次は名人ですね」
 空耳かと、幸三は思った。
 それとも、蝉の声がそう聞こえたのか。
 振り返ると、青い日傘はだんだんと遠ざかっていき、いつしか人混みに紛れて見えなくなった。
 陽はまだ高く、蝉たちの合唱がひときわ大きくなった。

(了)

                                     

※本作品は史実に基づくフィクションです。

●参考文献
「名人に香車を引いた男 升田幸三自伝」
 升田幸三、田村龍騎兵・筆録(朝日新聞社)
「升田将棋選集 第一巻」
 升田幸三(朝日新聞社)
「升田幸三物語」
 東 公平(日本将棋連盟)
「将棋哲学」
 阪田三吉(小澤書房)
「菅谷北斗星将棋観戦記 南禅寺の決戦・天龍寺の決戦」
 菅谷北斗星(小澤書房)
「阪田三吉名局集」
 内藤國雄(講談社)
「阪田三吉血戦譜(1)(2)(3)」
 東 公平(大泉書店)
「棋神・阪田三吉」
 中村 浩(小学館)
「糊口の棋士 坂田三吉伝」
 岡本嗣郎(集英社)
「反骨の棋譜 坂田三吉」
 大山勝男(現代書館)
「ある勝負師の生涯 将棋一代」
 木村義雄(文藝春秋)
「将棋随想 勝負の世界」
 木村義雄(恒文社)
「小説 将棋水滸伝」
 藤沢桓夫(文藝春秋)
「将棋百年」
 山本武雄(時事通信社)
「南海の不沈艦 ポナペ島戦記」
 秋田武彦(恒文社)
「松井須磨子 女優の愛と死」
 戸坂康二(文藝春秋)
「銀座」
 松崎天民(筑摩書房)
「私のなかの東京 わが文学散策」
 野口冨士男「(岩波書店)
「喫茶店の時代」
 林 哲夫(編集工房ノア)
「昭和家庭史年表」
 家庭総合研究会 編(河出書房新社)

                    

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?