ノマドランドを観て
ノマドランドを観た。観た理由としては、賞を取って話題になっているということもあるし、また、孤独な人を観たいというのもあった。孤独な人を観たいという心の持ちようがなぜ生まれるのか、具体的にどのようなものなのかはよく分からなかったし、踏み込めなかった。
印象に残っているシーンが2つある。一つは、ノマドの女性が自分の人生を良い人生だと言い、その理由を話すシーンである。美しい風景を見たことや、ある人と出会えたことを、その理由として挙げていた。彼女の余命が残り僅かであるためかもしれないが、その語り口には、死の雰囲気が漂っていた。つまり、これをやったから私は死ねる、というものが明確だったのだ。これは、私にとって、問いとして突きつけられた。どのようにして、生きるのか。同じ意味で、どのように死ぬのか。何をするのか。
もう一つは、終盤のシーンである。ノマド生活をする人の多くが、それぞれ、深い悲しみや喪失感を抱えて生きていると言っていた。そして、「それでよい」と言っていた。「よい」というのは、良い悪いのよいではなく、自然とか性質という意味だと私は解釈する。心の中にある感情を、無くそうとするのではなく、認めて、折り合いをつけようとする。
世間には、悲しみや寂しさを紛らわすものが多くあるように思える。しかし、その多くは、その場しのぎのものである(もちろん必要であるが)。さらに、そういった感情を利用して商売している人も多くいる。人は、やっぱり、どうしても、悲しくなったり、寂しくなったりするのだ。もしかしたら、ノマドの人たちは、そういった世間や商売から離れていて、だからこそ、そういった感情と向き合うことなるのかもしれない。そして、それでいいのだ。
私はやはり、寂しかったのだ。それを口にすることで、認めて、向き合おうとすることができなかった。寂しさや悲しさ、そういった心の穴と向き合ってみようと思う。
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