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田中、会社辞めるってよ

「田中、会社辞めるってよ」

コピー機で書類をスキャンしながら、オレは中山に耳打ちするように囁いた。

「え、マジすか!?」

少し驚いたような拍子抜けしたような表情で中山はオレの方を向いた。

青天の霹靂、というやつか。

田中が青井部長からパワハラを受けているとオレに相談があったのは、今回の現場の件より以前の話だ。

しかし今回、現場で青井部長と喧嘩して、田中の堪忍袋の緒が切れて何も言わずに帰ってきたと聞いた時、正直マズイなと感じた。

いかにもテンプレートに添ったようなキレイなヒエラルキーの中に属しているサラリーマンにとって、上司にあからさまに逆らって現場を離れるとは如何なる理由があろうと処分の対象になる。

彼はサラリーマンのタブーを犯してしまったのだ。

しかし田中の気持ちは分からないでもない。

否、むしろ痛いほどわかる。

青井部長は後輩からしたら、手のつけられないほどの「ヤバい上司」なのだ。

何がヤバいって!?

彼はまず人の意見を聞く、という選択肢を持ち合わせていない。

現場に出たら、部下をコキ使い、休日を取得しようものなら言語道断と言わんばかりに、捲し立てるように意味不明に怒鳴りつける。

絶対に現場から離れられないのだ。

ジリジリと精神が病んでいき、しまいには干からびた雑巾のように生気を吸い取られてご臨終だ。

これが傍目から見れば、上司と部下のイザコザでメンヘラの部下がその圧力に耐えられなくなり失踪した、というシンプルな構図に落ち着く。

しかし当の本人からしてみれば、死ぬほどの絶望と死ぬほどの地獄の境地を味わっている。

青井部長とはまずは会話が成立しない。

新人が新しい仕事をわからずに、やり方を青井部長に質問しても必ずと言っていいほど、欲しい答えとは到底思えない全く見当違いの答えが返ってくる。

そして、こちらが仕事をしていても「ちょっと今いいか?」くらいの配慮の言葉も無しにデスクの背後から急に「あの件だけど、ふざけんじゃねぇぞ・・・」と意味不明の罵詈雑言の嵐が降りかかる。

急に怒鳴られるので、こちらとしてはなんの件で怒られているのかわからないままであるということも少なくない。

そんな理不尽な青井部長の元で現場で数ヶ月も一緒だなんて聞いただけでヘドが出る、というのは後輩たちの共通見解だ。

彼の口の悪さと論理破綻の不文律なワルツは、不快指数の閾値を容易に超えてくる。

メールの文章でさえ、意味不明な暗号の羅列のように感じる。

一般的な社会人がメールを打つときのテンプレートのような文章は皆無で独特の始まりと独特の内容と独特の締めでメールは終わる。

宇宙人の意味不明な言語を必死に解読するようなものだ。

つまり、到底見当がつないという結論に帰結する。

オレはあらゆる彼のエピソードと一次情報で得た彼の目も当てられない言動や態度を帰納的に推察して考えたとき1つの結論に辿り着かざるを得ない。

彼はおそらくグレーゾーンなのだろう。

いわゆる発◯障害グレーゾーンというやつだ。

今では医療が発達して、その傾向のある子供であれば診断で判断することが可能な時代になった。

しかし、50代半ばの青井部長の幼少期なんぞ、そのような子供の発◯障害に関する知識や情報など皆無に等しいだろう。

彼はその網から見事に潜り抜けてしまい、誰にもグレーゾーンを気付かれずにここまできたしまったのだ。

無論、これはオレの推察の域を出ないがおそらく合っている。

田中は無断で現場を離れたことに関して、社長と面談を受けたらしい。

お察しする。

これだけ小さな会社であれば、すぐに社長の耳に事は伝わるからだ。

田中は四面楚歌になり、追い込まれて辞めざるを得なくなったのかもしれない。

オレは、田中とランチを一緒したとき、彼のすでに決断を終えた晴れやかそうな表情を目の当たりにした。

「僕、会社辞めます」


中山は、営業としてプロジェクトを青井部長と田中と一緒に遂行していた。

気持ちは複雑だろう。

田中に原因が無いわけでもない。

彼も主張が強く目上の意見をあまり聞かない傾向にあるのだ。

「最初はうまく行くと思ったんですけどね、、」

スキャンする中山の姿はやるせ無さそうだ。

中山のそのような雰囲気を感じながら、「寂しくなるよな」と一言告げて、オレはコピー機から遠ざかった。

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