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私小説の文豪:西村賢太「苦役列車」

彼の筆致には底辺の底の底で絶望し切った男の極度の「諦観」という無敵さを感じる。

「無力」は、「無敵さ」と往々にして同義であると考えさせられる。

西村賢太氏の「苦役列車」を読むとそう思わずにはいられない。

私が西村賢太氏を認識したのは、大半の人がそうであるように彼がこの「苦役列車」という私小説で芥川賞を獲得した2011年だった。

当時の記者会見で、「そろそろ風俗に行こうかなと思っていた」と発言した内容は度肝を抜いた。

こんなに失うものが無い人間がいるんだなあと率直に感じた。

新潮文庫の背表紙のあらすじにはこう書かれてある。

現代文学に私小説が逆襲を遂げた、第144回芥川賞受賞の表題作。

新潮文庫「あらすじ」より

私小説が「逆襲」を遂げるとあるが、なるほど、私小説の文学における「地位」というのは比較的それほど高く無いものだったのかもしれない。

それを彼が高めたのだと言っても過言では無いのでは無いか、と感ずる。

彼の冒頭の文章から始まる露骨なまでの表現を考えると、中上健次氏の「岬」を思い出す。

武骨、露骨、作法なし、荒削りの人間の魂の剥き出しの震え、と言ったところか。

エリート街道というメインロードをとっくの昔に脱線した男の妬み・嫉み・僻みの熟成し切った表現力を見事に文学に昇華させている「感じ」が私にはなんとも心地よい感じを覚えた。

このような文章を読むと逆説的に、「生きているなぁ」と琴線に触れるし、「人間臭いなぁ」と感じずにはいられない。

石原慎太郎氏が解説の寄せた文章もそのような西村氏の魅力を存分に語っている。

西村賢太氏の作品の魅力はその人生の公理といおうか虚構といおうか、人々が実は密かに心得、怯え、予期もしている人生の底辺を開けっぴろげに開いて晒けだし、そこで呻吟しながらも実はしたたかに生きている人間を自分になぞらえて描いている。それこそが彼の作品のえもいえぬ力であり魅力なのだ。

石原慎太郎氏の新潮文庫に寄せた解説より 

人間というものは、多かれ少なかれ「破壊衝動」なるものや「人生における破滅願望」を心に宿しているのではないか。

その心のほの暗い闇をあぶり出して白昼の元に晒し出したのが西村氏の文学表現のように思う。

と言ったらとても崇高な文章をイメージするかもしれないが、実際のところは「露骨」、「武骨」
という表現が似合っている。

私が心のひだに引っかかった、西村氏の文章を紹介する。

酒と肴代、しめて二千二百円を払い店を出て、かなり酔っ払った足の運びでアパートに戻ってきた貫多は、それでもひと息ついたのちにはおもむろに日課の自慰行為に取りかかった。エロ雑誌の、全裸の美女が三人、それぞれ手で股間を隠しながら薄笑いを浮かべ、こちらに目線を向けていると云う写真で立て続けに二回、精を放つ。

新潮文庫P32


小説家は、命が途絶えても「作品」と云う魂の生まれ変わりが存在する。

彼の魂をとことんしゃぶり尽くしたい。

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