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連載小説「和人と天音」(8)

「いらっしゃいませ」店頭で元気の良い声が響いた。先輩アルバイトの響の声だった。音域が広くてどの声の時ものびやかに響く。「響」と書いて「ひびき」と読ませる名前も歌手みたいだと、初対面の挨拶で天音は思った。でも、響は外科医志望で私立の医大受験を目指す高校三年生だ。
 天音は先客のカップルの注文を聞いていた。アルバイトを始めて三ヶ月が過ぎ、「接客のセンスはわたしよりあるよ」と、響は言ってくれていた。
「かしこまりました。海の幸のサラダとパスタのセットをお二つ、パスタはタコのリングイネとムール貝のスパゲッティですね。お飲み物は白のグラスワインをお二つ、承りました。以上でよろしいでしょうか」

 注文を確認して目を上げたちょうどその時に、響が迎え入れた家族連れが天音の接客するテーブルの左隣の席についた。夫婦らしい男女と娘らしい少女の三人だったが、男は担任の岡田だった。天音が気づくのと同時に岡田も天音に気がついた。一瞬鋭い目をしたが、岡田はすぐ天音から目を逸らし、妻らしい連れの女性に何事か話しかけた。
 それから一時間あまり、天音は何度か担当するテーブルと厨房とを行き来したが、隣のテーブルの岡田一家には顔を向けないようにした。岡田も声をかけてはこなかった。天音の担当したテーブルのカップルが店を出るのとほとんど同時に岡田たちがレジで支払いをしていた。カップルを送り出す挨拶をした天音に、支払いを終わった岡田が出口に向かう素振りで近づき、意味ありげな目配せをした。一瞬だった。連れの母娘は気づかなかっただろうと天音は思った。

「あの客、知り合い?」
 岡田一家を見送って、厨房と客用のテーブル席の境目に立った天音のそばに来て、響が問いかけてきた。
「ううん、違いますけど」
「ふうん」あまり納得していない顔で響は斜めに首を振った。
「どうして知り合いだと思ったんですか」
「だって、あのお客さん入ってきた時天音の顔をじっと見たし、出る時もなんか目が怪しかったよ」
「ええー、そんなしっかりお客さんのこと見てるんですかあ」
 得意の甘えた声を少し加減して天音は言った。
「そりゃそうだよ。クレームを未然に防ごうと思ったら、お客様の様子にいつも気を付けていること。いつも店長が言ってるでしょ」
「そうですね。でも、すごいです、響さん、ちゃんと守ってるんですね」
「そりゃそうよ。以前ちょっとトラブったお客がいたからね、それ以来もう癖になってるのよ」

 女性客のグループが扉を開けて入ってきた。
「いらっしゃいませ」すぐに響の声が響き、天音のそばを離れて三人の女性客に足早に近づいた。
 その日は天音のいる間中、客足が途絶えることがなかった。もう響と話している時間はなく、忙しく動き回った。響もあれ以上、帰った客のことを詮索するつもりもないようだった。

 翌日、天音は職員室前の廊下で出会った岡田に、ちょっと話があるから放課後教室で待つようにと告げられた。岡田先生の肩に力が入ってるなと天音は思った。
岡田の指示があったのか、掃除が終わった後の教室に天音以外残っている生徒はいなかった。天音がトイレから帰ってくると、もう岡田は教室にいた。
「どうして呼ばれたのかわかってますか?」
 天音が岡田を避けるように自分の席に座ると、岡田は教卓のそばから天音の机の前までやって来て言った。
「わかりません」天音が平静な声で答えると、岡田は二度三度と頭を掻いた。
「また校則違反だ。アルバイトは禁止だよ、知らなかったと言うのかい」
 天音の気持ちは岡田の苛立たしそうな声に反応しなかった。岡田が本当に言いたいことは何か別にあるような気がしていた。それでも精一杯心細そうな顔を作った。
「先生、あたしの父は本当の父じゃないんです。母が死んで、昔母と別れた男の人が突然父だと言ってきて、あたしを引き取ったんです。そのうち父に何かされそうな気がして、あたしとても恐いんです、毎日。だから、一日でも早く父と分かれて暮らせるようにお金貯めてるんです。貯めなきゃいけないんです。先生、わかります、あたしの気持ち」
 そう言って、岡田の顔をすがるような目で見つめた。岡田には思いもしなかった天音の言葉だったようで、怒る教師の顔を保てなかった。困りはてた顔をした。

「学校の規則は本当に知りませんでした。でも、あたしバイトやめられないんです。どうしてもダメなら、あたし学校やめます」
 天音の言葉に岡田は小さく身震いした。
「ちょっと待てよ。先生は何もそんなこと言ってないよ。中学を途中で辞めるなんてダメだよ。だから、一緒に考えよう、どうしたらいいか、ね」
 岡田はゆっくり頭に手をやり髪を引っ張るようにした。天音は黙って、次に岡田が言うことを待った。
「あのアルバイトは毎日やってるの?」
「はい、毎日やってます。月曜から金曜までの六時から九時までと、土日の十一時から二時までです。ウィークデイのディナーと週末のランチ担当です」
「毎日三時間か、・・・これまで誰か知ってる人が来たことあるかい?」
「いえ、先生だけです」
 岡田は何か考えている顔をした。

「じゃあ、先生も行かなかったことにする、見なかったことにするよ。だから、君もできるだけわからないようにしなさい、君だってことをわからないように」
「先生、いいこと考えました。あたし、いつもマスク持ってて、知ってる人が来たらマスクします。そしたらわからないでしょ。それにこの町にあたしのこと知ってる人なんてほんの少しです。先生、大丈夫です。先生が来たのが本当に運命みたい」
 最後の台詞を言う時、天音は特別甘えた声を作った。岡田は何とも言えない顔をした。自分のしかけた罠にかかったイタチだわ。天音は心の中で毒づいた。

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