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連載小説「和人と天音」(12)

 天音

「いらっしゃいませ」
 一人の男性客が足早に店に入ってきた。岡田だった。その時、響は別の客の注文を聞いていた。す早く天音が接客した。
「どうぞ、こちらへ」天音は岡田を店に入ってすぐの壁際、二人がけのテーブルに案内した。ディナータイムの開店をしてから時間が立っていなくて、店はまだそれほど混んでいなかった。

 カウンターに戻ってきた天音に、響は意味ありげな笑いを浮かべて言った。
「あの人、この前に来てた人だよね」
「え、この前って?」
「いいわよ。とぼけないで。家族三人で来てて、あたしが天音の知り合いかって聞いた人よ」
「えへ、わかりました? あとで説明しますから、今はお水持っていきます」
 天音はグラスに水を注いでから軽く響に頭を下げ、岡田の席に向かった。響はちょっと唇を尖らしたが、それ以上何も言わなかった。

「ご来店いただき、ありがとうございます」
 天音が言うのを岡田は堅い表情で聞いた。口を開くまでにしばらく時間がかかった。
「ちょっと、君のことが気にかかったんでね」店に来たことの言い訳でもするように岡田は言った。
「でも、うれしいです。ご注文は何にいたしましょうか?」
 天音は感情を込めずに言った。アルバイト禁止の校則を告げた岡田が、なぜまた表れたのか天音にはわからないが、何か良いことが始まるとは思えなかった。

 岡田は店内を見回し生ハムのパスタを注文した。
 その後は何事もなく、岡田は天音の様子を時々じっと見つめていたが、特に話しかけるでもなく、食事を済ませるとまもなく帰った。レジで、何か言いたそうに天音を見たが、天音がエプロンのポケットからマスクを覗かせると笑顔になり、「じゃ」と言っただけだった。

 その日、着替えをしながら天音は響と話した。
「あの人、岡田っていうあたしの担任なんです」
「ええー、担任なの、やばいじゃん、それ。だって、中学なんてバイト禁止でしょう」
 響は私服のワンピースに着替えて、店のロゴマークの入ったブラウスとエプロンを畳んでいた。

「はい、この前学校でバイト禁止を言われました。でも、あたし、辞めないって言ったんです。響さんにも言いましたけど、あたし中学卒業したら家を出るつもりだからお金がいるんです。お金貯めてるんです。そう言ったら、誰にもバイトを見つからないようにしろ。自分も店に行かなかったことにするって」
「そんなこと言ったの。なんか変ねえ。下心があるんじゃないの?」

「下心って?」
 響は天音の本音を確かめるとでもいうように、じっと天音の目を見つめてから、意を決したように言った。
「あなたのこと狙ってんじゃない。天音って年よりも大人の女に見えるもん」

「大人の男との付き合い方教えてくださいよう」
 天音が誰かの声色のようなふざけた口調で言うと、響は腰に手をあてて、天音の身体、特に胸や腰のあたりを見回してから言った。
「大人の男はねえ、ちょっと甘ったれでバカなぐらいがいいのよ。うちの父さんは、酒飲みすぎてあたしが小六の時に胃癌で死んじゃったけど、すっごい甘ちゃんでバカだった。まじめに働いたけど、金儲けは下手で、夢みたいなことばかり言ってた。でも、母さんはそんな父さんが大好きだった。男は小さいことを気にしないバカがいい、その方が格好いいってね」

「だから、そんなバカで可愛い男と付き合うにはどうすればいいんですかあ?」
「うちの母さんみたいに、何があっても文句を言わず、男を信じるふりを続けることだね、まあ、あたしにはできないけど」
 最後はいつものように二人顔を見合わせ、声を出して笑った。

 響はバイト中はまじめであまり冗談も言わない。でも、仕事が終わると天音のように年下の者にも話しやすい空気を作ってくれた。そして自分の家庭のことを開けっ広げに話し、医者になるという自分のこれからの目標を話してくれた。年上の響にそうされると、天音も自分のことを話しやすくなった。バイトを始めて一月ぐらいした頃には、天音は響に本当の年令を白状させられていた。
 短い期間に、天音は響とたくさんそれぞれの家庭のことを打ち明け合った。響は母子家庭で恭二という中学一年生の乱暴者の弟がいて、これまでに喧嘩や何やら問題が絶えず、母が「父さんがいてくれれば」と陰で泣いていたことがよくあったと話した。天音は突然の母の死により、母子家庭から父子家庭に変わったことを話した。

「父さんが死んだことが自分の人生の方向を決めたから、もう自分の未来は全部見えてる。迷わずにまっすぐ進むだけだけど、時々回り道したい時もあるよ」  
 ある時、響が溜息でもつくように力の抜けた声で言ったことがあった。天音は響の声が気になった。響を元気にしたい、と思った。
「あたしは、まだやりたいことが分からない。響さんはやりたいことが早くから決まってて、うらやましい。やりたいことやるのが一番幸せでしょ。そう思うよ」
 天音がそう言うと、響はハッとした顔になって天音に頷いた。そして「そうだよね」と言いながら天音の手を取り、嬉しそうに笑った。

 後半年で、卒業式だ。そして天音は家を出ていく。それまでなんとか父である市川岳にも知られず、岡田が学校にばらすこともなくバイトが続けられ、目標の二百万円を手にして家を出て行くことが、天音の密かな計画だった。そのことを知っているのは響だけだった。


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