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連載小説「和人と天音」(7)

 翌朝、天音が教室に入ると黒板の前に男女の生徒がかたまっていた。男子の中には肘で隣の子を突き放すような動作をして、もみ合っている数名や、「またかよー、おら知らね」と大声をあげる者もいた。女子は数名づつかたまり声をひそめて話していた。重なり合うようにして群れている生徒たちの背中に、天音が近づいた時、女生徒数名の笑い声があがった。一人の女生徒が振り向いて天音と目が合った。その子は、反射的に眉を上げ上半身をびくっと動かし、すぐ前の子の肩を叩いて振り返らせた。
「ああ、市川さん」
 その声にその場にいた全員が反応した。黒板前の人のかたまりが砕けるようにバラバラに散って、隙間が広がり、天音からも黒板が見えた。

 また、張り紙があった。
「市川天音の秘密」 
「知ってるかい?」
 同じQ数,同じ書体の文字で二行になっていた。天音は、目の前の生徒の身体に触れないように気をつけながら前に出て、張り紙を剥ぎ取った。ゆっくり歩きながら粉々に破ってゴミ箱に捨てた。一瞬その場にいた全員が息を飲むような緊迫した静寂があり、すぐに教室中に囁き声が溢れた。嵐の次の日の波の音だ、そう思うとなんだか天音は笑いたくなった。

「また、変な張り紙があったんだね」
 放課後の教室で岡田が言った。天音が「はい」と答えると、岡田は天音の心の中を探るように「誰か変な奴がいるねえ。しつこいね」と言って天音を見つめた。
「いいんです。あたしは気にしませんから。ネットでやられるよりましです」
 天音の言葉を聞くと、岡田は急に肩に力を入れ、禁止事項を伝える教師の顔になった。
「そうだった、君スマホを教室で見ているそうだね」
「はい」
「学校にスマホを持ってきてはいけないルールになってることは知ってるかな」
「いいえ」
「そうか、知らなかったか、うん、そうだろう、そうだろう。いや、本校では学校でスマホを使うのは禁止されてるんだ。だから、君も明日からは守ってね」
「先生、あたしが父と二人暮らしなのは知ってますよね」
「ああ、ええ」
「父の仕事は帰りの時間が不規則なので、遅れる時はスマホに連絡くれることになってます。だから、あたしスマホが必要なんです」
 岡田は何か考えるような顔をした。
「教室でスマホを見たりするのはもうしません。でも、父からの連絡をチェックするのにスマホを持っていてはいけませんか?」
 すぐに答えないで目を宙に泳がせていたが、まもなく岡田は言った
「わかった。特別に許可しますから、皆んなにスマホを持ってるのを気づかれないようにしなさい」

 どうやらこのクラスには担任の岡田との間に秘密の情報ネットワークがあるらしい。天音のスマホのことも、それで岡田は知っていたのだ。最初の日に話しかけてきた子の言っていた「岡田先生には気をつけたほうがいいよ」の意味はこういうことか、気をつけようと天音は思った。

「岡田先生は独身ですか?」
 突然の天音の質問に岡田な一瞬驚いたような顔をしたが、すぐ笑顔で答えた。
「いやいや、先生には奥さんと小学一年生の女の子がいますよ、どうして?」
「いえ、ちょっと興味があったんです、・・・。でも、先生みたいに素敵だったら、昔からモテモテで、女の子に囲まれていたんでしょう?」
 天音が甘えた声で言うと、岡田はなんとも言えない顔をした。天音は痩せていて、上半身には女らしい丸みがまだ足りなかったが、細く締まったウエストからヒップにかけてのラインは成熟した女の形に近づいていた。岡田の目が、そんな自分の体を見回したのを天音は見逃さなかった。
「君はまだ中学三年だよ、教師を揶揄うなんて百年早いよ」
 少し怒ったような声で岡田は言ったが、岡田の本音は違うと天音は思った。
「先生に面接してもらうと、あたし元気が出るんです。これからもよろしくおねがいします」
 天音がそう言うと、岡田は限りなく嬉しそうな顔をして頷いた。

 翌日以降、妙な張り紙はなくなった。そのことについて、クラスの中に色々の噂が広まった。そうした噂話には興味も関心も示さなかった天音の耳にも入ってきた。
 岡田先生が早朝教室を見張っているので、犯人は張り紙をやめた、とか、岡田先生が犯人を教室で捕まえて、犯人は岡田先生のスパイになることと引き換えに許してもらった、とか、犯人は市川天音にラブレターを出して無視された奴だ、とか、市川天音の父親が岡田先生に文句を言ってきた、とか、どれもこれもまるで見てきたような熱心さで広められた。
 最初に天音に話しかけた子とか何人かの女生徒が、天音に探りを入れてきたが、天音は笑って「知らないわ」と答えるばかりだった。

 張り紙の目的も、誰がやったかも、わからないままだったが、クラスの中には「岡田のお気に入り」として天音を特別視するような空気が広まった。クラスメートから気軽に遊びに誘われることもなく、仲間外れにしたり、天音のキャラクターを「いじったり」する者もいなかった。

 週に七日、年令を二才多く申告して、天音は隣町のイタリアンレストランでウェートレスのアルバイトを始めた。同居する父、市川岳(天音にはまだ父という実感はなく、無理やり同居させられている大人の男にすぎなかった)には内緒にした。この男から自由になるための準備だったからだ。
 月曜から金曜の午後六時から九時までと、土曜、日曜の午前十一時から午後二時までのそれぞれ三時間だった。レストランまではバスで三十分かかった。誰にも気づかれないように天音なりに用心したつもりだった。
 死んだ母が天音名義で普通預金の通帳を残してくれており、百万円近い金額が残っていた。月十万円ほどになるアルバイト代は、その口座に振り込んでもらうようにした。中学を卒業する日まで、自分を自由にするための預金を増やしていくことが天音の密かな楽しみになった。
 市川岳はコンビニ店の店長をしており、毎日午前十時から午後十時までは店にいたので、天音のアルバイトのことは何も気づいていなかった。


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