連載小説「和人と天音」(6)
新しい学校の担任は岡田という三十代の男性教員だった。
天音を、最初にクラスの皆に紹介する時、天音の背中に掌をぴったりくっつけた。掌の形そのままに大人の男の体温と湿り気が伝わってきて、天音はぞっとした。
「市川天音さんです。東京から転校してきました。仲良くしてあげてください」
この先生の声も嫌いだな、その人の手に押し出されて一歩前に出ながら、天音は思った。
最初の休み時間に声をかけてきたのは、自分も昨年東京から越してきたという私服の女生徒だった。この学校に制服はあるが、強制ではないと言った。クラスの生徒たちの服装は、男子に制服のズボンをはいている者が数名いる程度で、学生服姿のものはいなかった。男子も女子も多くの者は、同じデザインの紺色のジャージー姿で、どうやらそれが準制服みたいなものらしい。
「こっちの子たちは、東京と違ってゆっくりしてるから大丈夫よ、途中からでも」と笑って言った。天音が新学期の途中で転校してきたことを心配していると思ったようだ。天音は薄く笑って頷いたが、何も言わなかった。話しかけてきた子は、天音の反応が少し意外だった様子で、すぐ離れていったが、「岡田先生には気をつけたほうがいいよ」と謎のような言葉を残した。
天音に話しかけてきた女生徒は最初の一人だけだった。男生徒は天音の様子をじっと見ている者が数名いたが、話しかけてはこなかった。
天音は新しい学校では友達を作らない、と決めていた。この学校を卒業したら、この町を離れてどこか知らないところに行って一人で暮らすつもりだった。この一年間は友達なんか作るより、一人で生きていくために必要なことを学んだり、準備したりしようと思っていた。
翌日から授業の合間に話しかけてくる女生徒はいた。女子特有の小さなグループがクラスにいくつかあって、そのそれぞれのグループから話しかけてくる子があった。天音は聞かれたことにできるだけ言葉少なに答えたが、興味本位で「いじられる」ことにつながるような身の上話めいたことは一切しなかった。
転校して二週間程過ぎた頃、天音は机の中に横長の封筒が入っているのに気がついた。封筒の表にも、裏にも何も書かれていなかった。封筒の中にはA4サイズのコピー用紙一枚にワープロ文字で書いたラブレターらしいものが入っていた。
市川天音さん、ぼくはきみのこと思うとドキドキが止まらなくなります。体育の受業できみの細うでがバレーボールをトスした時、ぼくは自分の頭をトスされたような気がしました。それで、なんだかうれしいような、楽しいような、でもちょっとかなしいような、わけわかんない気持ちになりました。
国語の受業できみがあてられて読んだときには、そのだれかの詩がダイスキになりました。雨ニモマケズとかの詩です。あれはきみの声にとてもあってたよ。なんかガンバレって、ぼくをはげましてくれてるみたいな気がしました。
授業を受業と誤植しているのも、平仮名やカタカナが多いのも、これを書いた人間の程度を表していると天音は思った。転校初日に天音を見つめていた男生徒の一人が通りがけに天音の手元を覗き込んできた。天音はそれ以上読む気をなくした。半分も読んでいないラブレターと白い封筒をその場で細かく破って、教室隅のゴミ箱に捨てた。
しばらくして、最初の事件が起こった。ある日の朝、黒板に「市川天音の秘密」とワープロ打ちしたA4サイズのコピー用紙が張り出されていたのだ。張り出されていたのはその一枚の紙だけで、文章も1行「市川天音の秘密」と大きめのQ数の明朝体で印字されているだけだった。その日最初に登校した何人かの男生徒が見つけたが、そのままにしておいた。
朝のホームルームで担任の岡田が教室に来た時も、張り紙はそのままだった。
「誰です、誰がやりました?」
大きな声だが、ゆっくりと岡田は言った。もちろん名乗り出る者はいない。
「誰だい、冗談のつもりだろうけど、こんなの趣味悪いよ。自分は隠れていて人の足引っ張ろうとするのは、ネットの中傷と同じで卑怯だと先生は思う。誰だか知らないけど、これで最後にしよう」
岡田は言い終わると、黒板から貼り紙を剥がして四つに破ってみせた。その日一日中、休み時間になると落ち着きなく生徒たちが動き回り、小声でのねっとりした話し声が絶えることはなかった。天音に話しかける生徒はいなかった。天音は一日中口を閉ざし、休み時間にはスマホの小説を読んでいた。
放課後、天音は岡田に居残るように指示された。
「誰がやったか、思い当たるかなあ?」
岡田は黒板を背にして立ったまま、教卓の前の座席に座っている天音に言ったが、それは尋ねるというより世間話でもするような口調だった。天音は黙って首を左右に振った。
「そうだろうねえ、うん、わからないよね。皆んなに言ったことと同じだけど、ほんの軽い冗談、というか、市川さんを揶揄うつもりでやったと思うんだ。まあ、許してやってください」
岡田は微笑みながら言った。
「冗談、でも傷つきました、あたし」
天音が静かにそう言うと、岡田は慌てた様子で右手を胸の前で上下に扇ぐように動かした。わかった、わかったという印のつもりなんだ、と天音は思った。
「いや、それはそうだ。だからこそ、犯人探しをするよりも二度とこんなことが起きないようにすることが大事だと先生は思ったんだ」
「あたし、秘密なんかありません」
「うん、そりゃあ、そうだろう。先生もそうだろうと思ってるよ」
「でも、転校した理由とか、あたしの事情はあります。その事情は校長先生と教頭先生にだけ父が話しました。先生は知ってるんですか?」
「いや、知らない。君のお母さんが亡くなられて、お父さんと二人暮らしということぐらいは知ってるよ。ぼくのクラスの生徒の基本情報としてね」
岡田はさっきより少し緊張した声で言った。
天音はもういいと思った。この担任を脅かしても仕方ない。あんな張り紙がなんだという気持ちだった。岡田の言いかたがなんだか気に障っただけだ。岡田はさらに天音を慰めるようなことを言ったが、天音は黙っていた。その日の面談は、すぐに終わった。
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