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連載小説「和人と天音」(2)

 芦田恭二に「恐竜恭二」と言うあだ名がついたきっかけは、一年前のある喧嘩沙汰だった。始めはボクシングのまね遊びだった。小学六年だがとても小学生には見えない大柄で無表情な番長が、前夜のテレビで見たボクシングのノックアウトシーンをスローモーションで再現すると言った。何人かの取り巻きがいたが、なぜか番長は東京から転校してきてチームに入ったばかりの芦田恭二の顔に向けてゆっくり右拳を突き出してきた。番長とほぼ同じ背格好の恭二もすぐに反応して身体の前に拳を構えた。番長の動きにあわせてゆっくりと左に首を曲げ、番長の右拳を避ける仕草をした。

 そのとき番長が大きく口を開いて笑った。恭二の顔にゆっくり近づいていた番長の右拳ではなく左拳が弧を描いて恭二の唇を直撃した。恭二は倒れなかったが、一歩二歩と後ろにたたらを踏んだ。取り巻きの少年たちが番長におもねるように笑った。それは番長が新入りをもてなす荒っぽい儀式だったからだ。みんなやられた経験があった。恭二は血の混じる唾を吐き出し、下を向いて首を左右にくきくき動かし、血走った眼で上目遣いに番長を睨みつけた。
「だからノックアウトシーンって言ったろ」
 番長はニヤニヤ笑いながら言った。
「本気かよ」
 恭二は番長を睨みつけたまま呟くように言った。
「本気さ。試合だかんな」
 番長は無表情に戻って身体の前に拳を構えた。

 恭二はそれを聞くと、歯を噛み締めて喉の奥からキーキーキーーと長く尾を引く叫び声をあげた。それから本格的な喧嘩になった。番長はボクシングでも習っているのか左右の拳を上手に使った。恭二はもう一発右頬を打たれたが、お返しに右足の回し蹴りを番長の左脇腹にめり込ませた。番長は立っていられなかった。膝を地面に叩きつけるようにして倒れこんだ。恭二は倒れた番長の側頭部をサッカーボールでも蹴るように蹴り上げた。後には番長の激しい泣き声だけが辺りに響いた。
取り巻きの連中は呆気に取られたように見ているだけだったが、この日の喧嘩を目撃した子たちがこの喧嘩の顛末を言いふらし、その後、このチームの次の番長には恭二がなった。誰が言い出したのか「恐竜恭二」と言うあだ名もこの界隈で知れ渡った。

「お前らの連れか、この泣き虫」
 恭二が和人と直之に言った。語尾が低く掠れた声だった。直之が何か言う前に和人が恭二に向き合い黙って首を縦に振った。恭二は苦笑いしながら近づいて来た。その時、太った一年男子のかわかみのりお(川上紀夫)は、こっそりと逃げるように一人だけその場から走り去ったが、誰も気にしなかった。
「すみません、あの、えっと・・・」
 直之が恐る恐る言いかけた言葉を封じるように、
「いいから、早く連れて行けよ。オレが泣かしたと思われるだろ」
 恭二が笑顔を消して言った。
 和人は急いで真知子に近づき肩のあたりに手をかけて立たせた。真知子はその一瞬強く泣いたが、その声が最後の泣き声ですぐ泣き止んだ。
「あのね、あのひとにぶつかっちゃたの。それでね、こけていたかった」
 真知子は和人の手が自分の身体から離れると、その右手を自分の両手で掴んで言った。
「気をつけなよ。前見ないで走ると危ないぞ」
 恭二は真知子の方を見ずにそう言うと、足早に歩き去った。

「良かったねえ。どうなるかと思ったよ。きょうりゅうキョウジだもんな」
「なに、それ」
「だからさあ、まちこのぶつかったのは、うちの小学校の前の番長できょうりゅうキョウジってキョウボウなやつなのさ」
「へーそんなへんななまえのひといるんだ」
「人をおそう前にはきょうりゅうみたいな気持ちわるいさけび声をあげるから、きょうりゅうキョウジっていうのさ」
 直之と真知子の喋る声を聞きながら、和人はあの有名なワルが意外にいい奴じゃないかと内心思っていた。
「人っていうのは、しっかり向き合って本気で付き合わないと本当のことはわからへん。噂なんかあてにならないもんや」
 とじいちゃんがいつも言っているのはこういうことなんだな、と和人は納得した。じいちゃんはやっぱりすごいや、と思った。


つづく


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