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連載小説「和人と天音」(19)

 じいちゃんが死んだ。十二月中旬、街中にクリスマスの歌が流れる頃だった。
病院の先生に言われた3ヶ月より2ヶ月長く生きた。最後まで和人には苦しんでいる顔を見せなかった。いつも笑顔で和人を迎えてくれたし、笑顔で見送ってくれた。だから和人はじいちゃんがいつもの頑張りで病気を出し抜いたのかもしれない、病院の先生よりじいちゃんを信じる、と思おうとした。
 そのやさきの死だった。僕のじいちゃんを信じる思いが弱かったからだ、と激しく和人は自分を責めた。葬式の日、ふさぎ込んだままの和人に母が言った。
「和人、じいちゃんはお前が毎日来てくれるから、とっても頑張って平気な顔をしてたの。本当は痛くてたまらなくても、お前には笑ってる顔の思い出を残したかったって言ってたわ。その頑張りが、お医者様の言った時間より長くじいちゃんを生かしてくれたのよ。お前のために笑って生きようと努力したから、じいちゃんはあんなに頑張れたのよ。お前がじいちゃんを笑顔にしてくれたのよ。少しでも長く生きようとする力をくれたのよ。和人、ありがとう」
 和人はその母の言葉を聞いてぼろぼろ涙をこぼした。縮こまっていた和人の心に新しい空気が流し込まれ、涙と共にしこりがほぐされていった。

 葬式はマンションの自宅でひっそりと行われた。葬儀社の人がじいちゃんの寝室にじいちゃんの写真を飾り、小さな白い祭壇が置かれた。母はじいちゃんが死んだことをできるだけ内緒にしたいかのようだった。誰にも特別な連絡はしなかった。
 それでも何人かの人が来てくれた。作文教室の先生が一番先に来てくれた。先生は、じいちゃんが入院して以来、何度か和人にじいちゃんの容態を聞いてくれていた。だから、じいちゃんが死んだことは和人が先生に告げた。先生は、じいちゃんの写真に向けて両手を合わせてじっと目を閉じていた。やがて目をあけると和人に「大変だったね。落ち着いたら、また作文作りにおいで。待ってるよ」と言ってくれた後、母に挨拶して帰って行った。
 和人の登校仲間の岩井直之と桜井真知子が、それぞれのお母さんに連れられて来てくれた。岩井直之は神妙な顔をして、和人に頭を下げたが、何を言っていいのかわからないようで黙っていた。和人が「来てくれてありがとう」と言うと、「いや、あの、えーと、どういたしまして」と言って、「何言ってるのこの子は」と母親に叱られ、情けなそうな顔を和人に向けた。
 桜井真知子は和人の手を握って、「かずちゃん、はやくげんきだして」と言った。和人がうんと言うように頷いてにこりとすると、嬉しそうに笑い返した。
それ以外にもマンションの住人が数人、じいちゃんに別れを言いに来てくれた。

 その日の夜、その男は来た。マンションの玄関から各住居に通じているインターホンは鳴らなかった。いきなり三浦家のチャイムがなった。母は台所で揚げ物から手が離せなかった。和人が入り口ドアに行った。和人が開けるより早く外からドアを開いて男が入ってきた。
「どちら様ですか?」和人が呼びかけると、その男はじっと和人を見つめた。
「私は三浦洋、君の父親だよ」そう言った後も、和人から目を逸らさなかった。
 和人は、じいちゃんとの約束を思い出した。同時に、父が母から金を巻き上げる悪人だと聞かされた時、一瞬でもそんな悪人の父と会いたいと思ったことを思い出した。そして、じいちゃんに申し訳ない気持ちが心に充満した。この男は父ではない、自分の父はじいちゃんだ、と強く思った。

 三浦洋と名乗った男は、じいちゃんの遺影に向かって手を合わせ、焼香した。三浦洋のことをじいちゃんは「息子」と言った。確かにその男の目の形はじいちゃんによく似ていた。そして、自分にも似ていることが和人には分かった。小さい頃から、和人はよくじいちゃんに目が似ていると言われていたのだ。

「お焼香が済んだんなら、もう帰ってください」母が言った。
「帰るって、どこへ?」ニヤリと不敵な笑いを浮かべて男が言った。
「あなたの家に決まってるでしょ。ここはあなたの家ではありません」
「おいおい、やけに冷たい言い方だな。親父が死んだら、この家に俺の座る場所もできたんじゃないのか」
「いいえ、あなたはもうずっとこの家の人ではありません。あなたの女遊びで私の独身時代からの貯金も使い果たされてしまいました。和人が生まれて1年、私たちはあなたの自分勝手な行動をがまんしました。でも、あなたの行動は変わりませんでした。あの時言いましたよね。あなたはこの家に必要ない人だって」
「お前と親父ができてたことは知ってるよ」
「あなたって人は、本当にゲスね。もうこれ以上話したくありません。どうぞ帰ってください」
「帰ってほしかったら、出すもの出せよ」
「お父さんの貯金もあなたがしっかり生前浪費で使ってくださったので、遺産として残るものはありません。このマンションも賃貸ですし」
「これが最後の最後。二度と来ない、本当の最後だから頼むよ」
「本当の最後だ」と言った時、また男はニヤリと笑った。

「最後は1回だけ。2回あったら最後じゃないよ」和人が母、初枝の体の前に出て、男に言った。男は少し驚いた顔をしたが、すぐに和人の体を押しのけようとした。和人は男の力に逆らわず、母の身体を庇いながら押されるままに後退した。母のお腹と和人の背中がつながった。母がお腹と足に力を入れて踏ん張った。母の踏ん張りに合わせて和人も下半身に力を入れた。母の身体と和人の身体が繋がったまま、男の圧力に抵抗した。男は一瞬力を入れようとしかけたが、母子二人の視線、まるで見も知らぬ悪党でも見るような視線を受けて思い直した。小さく唸って、和人の身体から手を離した。
「なんだお前は、父親に反抗するのは早すぎるぞ」
「反抗じゃあない。僕の父はじいちゃんだ。あんたなんかじゃない。僕はじいちゃんの遺言を守って、母さんをあんたから守る。さあ、帰れよ。帰らないと、・・・」
「なんだ、どうする気なんだ?」男はまだ余裕を見せて、皮肉な笑い顔を作った。
 その時インターホンの呼び出し音が鳴り「こんにちは」と恭二の声がした。
「助けてー」和人がインターホンの通話ボタンを押しながら思いっきり叫ぶと、驚いたのは男ばかりでなく母の体もビクッと震えた。

「和人、どうかしたか?」インターホンを通して恭二の緊張した声がした。和人がマンションの玄関ドアを開くボタンを押すのと同時に、男が逃げるように慌てて三浦家から出ていった。


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