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連載小説「和人と天音」(18)

「天音、お父さんを許してくれるか?」
「許すって、なにを?」
「だから、お前とお母さんをほったらかしにしていたことを、許して欲しいんだ。俺はいつもお前たちのことを考えて懺悔の涙を流してたんだ」
「いいよ、済んだことは。それにお母さんはもういないんだし、今更謝られても仕方がないよ」
「いや、だから、お前に聞いてるんだ。俺を許してくれるか?」
 岳はやけに真剣な目をして天音の顔を見つめていた。天音はなんだか薄気味悪くなった。岳の身体を乗っ取ってどこかの化け物が喋っているような感じがしたのだ。

「いいよ、許すよ、だから、もう寝ようよ」
 岳に握りしめられた両掌を振りほどいて、天音は岳から自分の身体を遠ざけるようにした。天音の皮膚のうすい掌は、青い血管が浮いて見えた。
「俺は陽子を、お前のお母さんを愛していた。誰よりも強く、激しく愛していた。でも、あいつの心を繋ぎ止めることができなかった。あいつが俺と一緒に暮らした家から出て行った時、俺はほっとした。あのまま行けば、あのまま一緒にいたら、俺はあいつを殺してしまってたかもしれない。あいつが家を出て行った時、自分の身体にたぎっていたものが蒸発してしまったようだった」

 天音は考えた。この男は私の同情を引こうとしている。なんのために?
「初めてお前を見た時、本当に驚いた。お母さんにそっくりだったからだ。一瞬、陽子が生き返ったかと思った」
「あたしはあたし、そんなにお母さんに似てないよ。おかあさんみたいにきれいじゃないし、優しくもないよ」
「ああ、そうだ、お前は陽子のコピーじゃない。お前はお前だ。でも、俺にはお前が陽子に、お母さんに重なって見える時があるんだよ。顔の表情は勿論、首の細さとか・・・」言いながら、岳は天音の体をなぞるように見つめていた。
 この男は自分の元から逃げ出したお母さんに復讐したいのだ。どうやって?私を自分のものにして、と天音は思った。
 
「そんな目で見るなよ」
「そんな目って?」
「大人をバカにしたような目だよ」
「そっちこそ、そんな目で見ないでください」
「どんな目だ?」
「あたしの身体を舐めまわすような目です」
「舐めまわす?そうか、舐めまわされたいのか?」
 天音が黙ると、岳が天音の身体に両腕を伸ばそうとするような格好をした。冗談めかしていたが、目は薄く開いたまま、じっと天音の反応を探るように見つめていた。

 天音が立ち上がり部屋を出ようとすると、岳はその天音を背後から羽交い締め
にした。
「お父さん、やめて」
 天音は冷ややかな声を出して身体を揺すぶり、岳の腕から逃れようとしたが、岳の腕に一層力が入って左の乳房を鷲掴みにされた。すぐにその手は退けられたが、退けられる前の一瞬、乳房の形をなぞるような動きをした。
 天音は、力を抜いた岳の両腕から逃れた。
「いいかげんにしてよね」
 天音は、岳の腕から自由になると、男に別れの言葉を告げる大人の女のように冷静な声で言った。岳は俯いていたが、天音には相変わらず人ではない化け物が薄笑いをしているように感じられた。
「悪かった、けど、わざとじゃない。お前が急に暴れるから、怪我させまいと固く抱きしめたんだ」
「もう出てって、二度とあたしの部屋には来ないでください」
「この家は俺の家だ。どの部屋でも好きな時に行くさ」
 天音は言い返さなかった。ただ、岳を部屋から押し出した。岳は身体から力を抜いて、天音に押し出されるままに部屋を出て行った。

 天音は、パジャマを通学服に着替えて、押し入れからボストンバッグを出して下着や洋服を何着かずつ入れた。通学カバンに教科書やノート類を全て入れた。
 机に向かって座った。目をつむると次から次へと涙が湧いて流れた。しばらく涙が流れるままにして目をつむっていた。
 ホッと息を吐いて目を開き、ゆっくりと自分の最上の笑顔を作った。初めは作った笑顔だったが、すぐに心からの笑いが込み上げてきた。
「計画より3ヶ月早く家を出るんだ」天音は心の中で自分にそう宣言した。声を出さずにいつまでも笑っていた。

 天音はそのまま眠らなかった。通学服のまま明るくなるのを待った。朝、天音は朝食の支度をせず、いつもより1時間早めに家を出た。家を出る時には、岳はまだ眠っているようだった。天音はできるだけ音を立てないように気を使いながら、ボストンバッグと通学カバンを持って家を出た。今日から卒業まで、芦田響の家に居候させてもらうつもりだった。響は前から、家出したらいつでも来ていいよと言ってくれていた。

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