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連載小説「和人と天音」(17)

天音

 十二月のある夜、岳はいつも通り10時半ごろ帰ってきた。天音はいつものように自分の部屋に閉じこもって、岳と顔を合わさないようにしていたが、部屋のドアがノックされた。そして、「入るよ」と言って岳が部屋に入ってきた。
 天音は机に向かって翌日の時間割を確かめていたが、岳の声に反応して振り向いた。
「ちょっと出かけてくる。昔の知り合いと会うんだけど、酒を飲むことになると思う。遅くなるかもしれないから、寝るんだったら玄関の鍵かけて寝なさい。俺も鍵を持って行くから」岳は、天音の顔を見ながらゆっくり話したが、天音はすぐ目を逸らして「わかった」と短く答えた。
 岳は何かもっと話したそうな感じだったが、天音は岳に背を向けて机の方を向いてしまった。岳はくるりと回れ右をして「じゃあ、行ってくる」と言った。
「行ってらっしゃい」天音は自分の声のそっけなさを感じた。そして、お店だったら響さんに注意されてるな、と思った。

 11時過ぎに風呂に入った後、パジャマ姿で1時間ほど茶の間でテレビを見た。岳がいる時は、夜自分の部屋から出ることはなかったので、夜テレビを見ることもなかった。久しぶりのテレビは、古い映画かお笑いタレントのトークショーしかやっておらず、天音にはどれも面白くなかった。その夜は、布団に入ってもなぜだかなかなか寝付けなかった。枕元に置いている目覚まし時計が2時をさす頃に、ようやくうつらうつらとし始めた。

 話し声がした。廊下を歩く乱れた足音もした。天音は眠りのとば口から引き戻されて、すぐに目を開いた。話し声と思ったのは、酔った岳の独り言だった。
「おおい、天音、もう寝たか、帰ったぞ、お父さん帰ったぞ」岳はいきなり部屋に入ってくると、電灯をつけ、寝たふりをする天音に呼びかけた。
「天音、話があるから、ちょっと起きてくれ、おい、起きろ、天音」
 ついに岳は布団の上から天音の体を掴んで揺さぶった。
「なによ、やめてよ、何時だと思ってんのよ」
「すまん、だけど頼む、起きて俺の話を聞いてくれ、な、天音、頼むよ」
 岳の声が妙に真剣で、酒の酔いのせいだけではない切迫感が感じられて、天音は起きることにした。掛け布団をパジャマの下半身に巻きつけるようにして敷布団の上にあぐらをかいて座った。
 岳は天音の勉強机の椅子に座って、天音が母の遺品として大事にしていた写真立てをじっと見ていた。その写真立てには今の天音によく似た若い母と三歳の頃の天音が写っていた。

「なんの話、早くしてください」
 天音の怒気を含んだ声に促されて、岳は椅子を回転させて天音に向き合った。
「陽子は、お前のお母さんは、俺と結婚することが決まっていたのに、別の男と付き合うのをやめなかったんだ」そう言って、岳は話を途切らせた。
岳の話が終わってしまうまで何も言うまいと天音は心を決めていた。だから、岳が話を途切れさせても、黙って話の続きを待った。やがて岳は話を続けた。
「俺たちは3人組と呼ばれていた、陽子と俺とそのもう一人の男は。今夜久しぶりにそいつと飲んだんだ。そして、嫌なことをいっぱい思い出してしまったよ」
 その嫌な思い出を反芻するように岳は目を閉じて黙り込んだ。長い沈黙が続いた。
「話、終わりなら、寝たいんですけど」天音が言うと、目が覚めたとでもいうようにブルっと体を揺すって岳は天音を見つめた。

「いや、違う。終わりじゃない。本当に言いたいことはまだ話してない。お前が陽子のお腹の中にいることがわかって、俺は陽子にプロポーズした。散々待たされたけれど、陽子は承諾してくれた。でも、それからが地獄だった」
 その地獄の日々について、母が天音に話してくれたことはなかったが、天音はある程度知っていた。母が死んだ後、母の遺品を整理していて、何人かの友達から来た手紙の束を見つけた。手紙は差出人別の束になっていたが、二人の男からの手紙の数が多かった。岳からの手紙と、三浦洋という男からの手紙だった。母の過去を覗き見するようで気が咎めたが、気になってつい読んでしまっていた。
「お前が生まれて俺は本当に嬉しかった。やっと奴に勝てたと思った。でも、日が経つに従って、不安になってきた。ひょっとして俺の子供ではないのかもしれない。奴の子供なのかもしれない。そんな疑心暗鬼が頭の中に住み着いてしまった」
 この人も苦しかったかもしれないけど、お母さんはその何倍も苦しかったに違いない、この人はきっとお母さんを責め立てたのだろう、と天音は思った。

「そして、その日が来た。俺が仕事から帰ってくると、陽子もお前も消えていた。お前が二歳の誕生日を迎える前だった。よちよち歩きで可愛い盛りだったが、お前を優しく抱いたこともなかった。あれから15年、何度か探そうとしたが、いつも中途半端だった。疑心暗鬼を乗り越えて、心の地獄を終わらせる自信がなかった。すまなかった、天音、許してくれ。俺はお前に謝りたかったんだ」
 岳は声を出して泣き出した。天音は、泣く男を冷たい気持ちで見つめた。
 岳はすぐに泣き止んだ。声を出して泣いた割には、目がそれほど濡れていなかったし、赤くもなかった。
 天音は岳が泣いている間、早く一人で暮らしたいと、そればかり念じていた。この男と一緒に生きるつもりはない、後3ヶ月の辛抱だと心で唱えていた。
 その天音の心を感じ取ったかのように、岳が天音の両手をがっしりと握りしめた。決して天音を自分のそばから離さないとでも言うように。天音はその瞬間、背筋にぞくりと寒気を感じた。


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