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連載小説「和人と天音」(3)

 始業式は何事もなく無事に終わった。昼前には掃除当番以外の子供は、六年生から一年生までほぼ同じ頃に学校から解放された。和人が教室から出てくるのを、真知子が待っていた。
「かずちゃん、いっしょにかえろ」
 真知子はなんだか硬い表情で和人に駆け寄ってきた。和人は意外な出迎えに少し驚いたが、一年生の行動を予測するのは難しいと日頃から思っていたので、「いいよ」と短く答えただけだった。
 真知子は和人の言葉を聞くと、嬉しそうな表情になり、和人の左手を自分の右手でしっかり握りしめた。そして、小さくハミングしながら、和人の左手を前後に揺さぶって歩き始めた。小さな歩幅で弾むようなその足取りに、和人も合わせた。何人かのクラスメートが小さな女の子と手を繋いでいる和人を珍しいものでも見る目つきで眺めながら追い越していった。中には振り返って小さく笑い声を立てている男子もいた。

「かずちゃん、あのひとこわいひとなの?」
 校門を出たところで、真知子が周りに視線を泳がせてから言った。
「あの人って誰のこと?」
 和人は真知子の言葉の意味を分かったつもりだったが、そう問い返した。
「あさ、あたしがぶつかっちゃったひと」
 真知子は首をへこませ、顎をピンクのブラウスの襟にめり込ませるようにして言った。
「だ・い・じょう・ぶ。そんな変な人じゃないから、心配ないよ」
 大丈夫に少し力を入れて和人は答えた。
「でもね、なおちゃんは、きょうぼうって言ったよ」
「直之は、真知子をこわがらせようとわざとそんな風に言っただけさ」
 その言葉を聞くと、急に真知子はいつもの元気な笑顔になった。
「そうか。そうだよね。なんだ、なおちゃんのいじわるか。ふーん、そうか。なおちゃんてね、いつもいじわるいうんだよ。でね、このまえにあたしのくちにセロテープはろうとして、おばさんにしかられたんだよ。いっつもしかられてるんだよ。それなのに、いじわるいうんだよ。かわんないんだよ。バカだね」
 真知子の喋りがいつもの調子になったな、と和人は思っていた。真知子は和人の手を離して和人の周りを小走りに回り始めた。

 その日の夕食の時、和人は桜井真知子の母親が持ってきてくれたシラス入りの厚焼き卵を食べながら母の初枝の話を聞いていた。じいちゃんも黙って一緒に食べていた。母は夕食の準備をしてくれるだけで、自分は食べない。
「櫻井さんがね、真知子ちゃんを一緒に登校させてほしいんだって。あの子落ち着きがないからしっかりした子と一緒がいいそうよ。しっかりした子って言われたんだからね、断れないわよ。だから、明日から連れてってあげてね」
 和人は卵焼きに入れてもシラスはうまいなと思いながら、黙って母を見た。 「その卵焼き食べたら断れないわよ。いいわね」
 母はもう仕事に出るための化粧をすませていた。近くの駅前でスペインバルを土・日以外の週5日、毎晩6時から11時まで営業していた。頬紅の目立つ頬を少しふくらませたので、右の頬にうっすらとエクボが浮かんだ。
「うん、わかった」
 和人は答えながら、母の目の上のアイシャドウが少し濃すぎると思った。
「和人、ええやないか。お前のこと、ちゃんと見ててくれてる人がおる。お前が余計なことは喋らんで、いざという時には役に立つことを知ってる人がおるってことや」

 じいちゃんは褒めてくれたが、和人は別に嬉しくなかった。このところ自分の心の中に湧いてくる想いを整理しようと、作文教室に通ったり、それなりに努力しているつもりだが、不安な気分はなくならなかった。自分の中に喋りたいことが溜まってきているのに、いざそれが何かと考えてもうまく言葉がみつからなくて不安になるのだ。「別に・・・」と、どうでもいいような独り言を言ってみても落ち着かない。
 翌日から、和人は直之と真知子と一緒に三人で登校するようになった。真知子はよく喋り、それを直之がからかったり意地悪めいたことを言ってみたり、それに真知子がムキになって言い返したり、毎朝賑やかな道中になった。

 ゴールデンウィーク前の四月の第三金曜日、和人は一人で下校して作文教室に向かっていた。和人の習い事は、一年生の時から続けている拳法と五年生の終わり頃から始めた作文教室だけだ。
 クラスの子の中には、週三日以上習い事に通っている子も珍しくない。私立の中高一貫校への進学を目指す子の場合は、習い事以外にも予備校めいた塾に週の数日通っている。子供本人が希望して通っているわけではない。親が決め、親の意向に子供が従っているのだ。和人の母とじいちゃんは違った。習いたいかどうか、和人の気持ちを第一に考えてくれた。

 和人には父がいない。でも、和人にはじいちゃんがいた。和人が小さい頃のことで覚えているのは、じいちゃんと母と和人の三人で暮らした日々のことばかりで、父のことは何も覚えていない。父は和人が一歳になる前に家を出て行ったこと、そしてじいちゃんは父の父だということを、小学校に入学する時に母から聞かされた。

 習い事でもなんでも、和人がやりたいと言うことについては、母は何も言わない。ただ、じいちゃんに相談しなさいと言う。じいちゃんは和人がやりたいと言うことをじっと黙って聞いた上で、いつも同じ質問をする。
「誰かの真似、誰かに言われたからやなくて、ほんまに自分が心からやりたいと思ってるんか?」
「じゃあ、もう一回言うてくれ。なんでこれをやりたいと思うんや?」
「いつまで、どこまで、続けたいのや?」
 こんな三つの質問を必ずして、和人がなんとかそれに答えると、母にやらしてやってくれと言ってくれた。母はじいちゃんの言うことならやらせてくれた。
拳法は、「燃えよドラゴン」という映画をテレビで見て、それから何日かかけてじいちゃんのパソコンで検索して何本かの拳法映画を見た。そして習いたいと言った。
「うん、ぼくにむいてるとおもう」
「ケンカしなくても、てきのこころをかえられるようになりたいから」
「だれにもまけない、とおもうようになるまで」
 その時の三つの質問への答えだった。


つづく

 


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