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連載小説「和人と天音」(15)

和人

 七月にじいちゃんが入院した。なんの病気だか和人は知らない。いくら聞いても、母がはっきりしたことを話してくれないのだが、母の様子から重い病気だろうということは分かった。
 直之と真知子との集団登校は続けていたが、帰りは和人一人で帰った。じいちゃんの病院に寄るためだ。和人は毎日、学校帰りに病院に寄った。病院は学校から歩くと10分ほどかかった。病院と家とは学校を挟んで逆方向にあったから、病院から家までは30分歩かなければならなかった。病院への行き帰りの道中で、和人は六年生になってからのじいちゃんの様子を色々と思い出した。

 じいちゃんは今年の一月から定期的に病院に通うようになっていた。そして、その頃からじいちゃんは、もう拳法の型は全部教えたので一人で練習しなさいと言うようになった。四月に和人が六年生になってからは、型を教えてくれることはなくなった。今になって思えば、それも病気で身体が辛かったからかもしれないと和人は思った。たまに乱取りをしてくれても、ほんの数分ですぐに「よしよし、上手くなってきた。でも大事なのは型が身体の中に埋め込まれているかどうかや。じいちゃんが見てやるから型をやってごらん」と自分が汗をかく前に乱取りをやめてしまった。

「来たよ」いつものように、そう言って和人はじいちゃんの病室に入っていったが、じいちゃんはベッドにいなかった。じいちゃんの部屋は二人部屋だ。相部屋の入院患者は、顔中が濃い髭で覆われて、ちょっと目つきの鋭い中年男性で、もう長く入院してるみたいだった。和人は、その人に「ひげゴジラ」とあだ名をつけていた。勿論、誰にも言ってない。内緒である。内緒だが、時々その人を見るとそのあだ名が心の中でわーんと反響して、思わず吹き出しそうになったが、我慢した。

「こんちわ、今日は天気が良くてよかったねえ」とその人が和人に話しかけた時も、和人は「ひげゴジラ、ひげゴジラ」と心の中で唱えていたので、その人に聞こえたのかとギョッとした。
「おじいさんは、今検査に行ってるから、ちょっと待ちなさい」
 ひげゴジラの名前に相応しいのか相応しくないのか和人にはわからなかったが、優しい声の人だった。
「はい、ありがとうございます」和人は声と体を緊張させて答えた。いつも大人の人と話すとそうなるのだ。
「そんな緊張しなくてもいいよ。でも、君、毎日えらいねえ」
「いえ、そんなことありません」
「いや、おじいさんも君が来てくれて喜んでおられるし、君のことがとっても自慢らしいね。拳法を習ってるんだってねえ、君のこと話してる時の声が一番幸せそうだよ」
 じいちゃんと和人は気が合う、と和人は思っているし、和人はじいちゃんのことが世界で一番大好きだ。じいちゃんも同じ気持ちで、この人が言うように和人のことを自慢に思ってくれているのなら、最高に嬉しい。

 その日、じいちゃんは和人が来てから三十分ほど経って、ようやく病室に戻ってきた。とても疲れた顔をして、看護婦さんに付き添われてロボットのような歩き方で部屋に入って来た。   
 じいちゃんがベッドに横になるのを看護婦さんが手伝った。和人は何もできず、ただ疲れ果てたじいちゃんを見つめていた。
 看護婦さんは出ていき、相部屋のひげゴジラも眠っているように静かだった。
「和人、練習はしたか?」じいちゃんが声を絞り出すようにしていった。
「いつも病院の後でやってるよ」和人は小さい声で答えた。
「じいちゃん、ちょっと眠るな」
 枕元の丸椅子に座る和人が見つめていたが、じいちゃんは目を開けず、すぐに静かな寝息を立て始めた。

「来たよ」
 翌日、和人が病室に入るとじいちゃんは風に揺れる紫陽花の花びらのようにうっすらとした笑顔を浮かべ、枕を腰の下に挟んでゆっくりと上体を起こした。
 その日は、部屋にひげゴジラがいなかった。和人には、じいちゃんが何か話したいことがあるのだとわかった。じいちゃんは、うっすらした笑顔のまま和人を見つめてしばらく黙っていたが、やがて心を決めたように口元を引き締めて話し出した。

 病気のことだった。じいちゃんのお腹には嫌な塊ができているのだと言う。膵臓と肝臓にその塊はあって、もう手術できないとお医者さんに言われたらしい。
「塊って、ガンってこと?」
「そうや」
「治らないの?」
「そう。・・・和人は余命ってわかるか?」
「よめい・・・あとどれぐらい生きられるかってこと?」
「そうや。じいちゃんの余命は3ヶ月以内らしい・・・」
 そう言った後もじいちゃんは何かしきりと話していたが、和人はもう聞いていなかった。「じいちゃんが死んでしまう」という言葉が頭の中で暴風雨のように鳴り響いていた。

 和人が気がつくと、じいちゃんは話をやめて、和人の両手を包み込むようにしっかりと握っていた。じいちゃんの掌は冷たかった。そのひんやりとした掌が和人を正気に戻した。
「和人、よう聞いてくれ。じいちゃんはもう長くは生きられへん。それでお前に頼みがあるんや。それはな、お前のお母さんのことや。お前の父親が家を出て行ってから、お母さんはじいちゃん以外に頼れる人がいなかった。じいちゃんが死んだら、もうお母さんには頼る人が誰もいない。お前しかいない。だから、お前がお母さんを支えなあかん。じいちゃんはそれだけが心配なんや。どうや、和人できるか?」
 和人は、じいちゃんのこんな真剣な声は初めて聞いた気がした。どんな時でも、じいちゃん声や話しぶりにはどっか余裕を感じた。こんな切羽詰まった声は初めてだった。

「じいちゃん、俺、俺、母さんを守る。どんなことがあっても。でも、じいちゃん、いなくなっちゃだめだよ、俺、嫌だよ、じいちゃんがいない国で生きたくないよ」
「ありがとう。和人。じいちゃん頑張るよ。少しでも長く生きられるようになんでもやってみる。だから、お前も約束してくれ。これから何があってもお母さんを守るってな」
「うん、俺約束する。俺ゼッテー母さんを守る」和人は目から涙をボロボロ流しながら叫ぶように言った。


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