連載小説「和人と天音」(13)
二度目に店に来てから、学校で岡田が天音を見る視線がはっきり変わったような気が天音はしていた。何だか岡田の視線が油っぽいというか、体に粘りつくような感じがして気味が悪かった。最近、自分の胸の膨らみが大きくなって一年前に買ったブラジャーがキツくなったことと、岡田の視線の意味とが通じているような気がしたからだ。
「そりゃそうよ。だから言ったでしょ、もともと下心があったのよ。それに天音も、それをわかってたんじゃない。わかってて、利用しようと思ってたんじゃないの」
天音が岡田の視線の話をすると、響はこの前話したことを断言するように繰り返した。
「利用しようと思ってたんじゃないの」という言葉は質問するように語尾をあげたけれど、質問するというより決めつけていると天音は感じた。天音が岡田に気のある素振りをして、岡田を自分の思うように動かそうとしていたことは事実だった。そのことを岡田以外の人間には気づかれないように注意していたつもりだった。でも、クラスメートには気づかれなくても、響には見破られていたようだ。
「あいつきっと、次の一歩に出てくるよ」響は天音を見つめて言った。
「次の一歩って何ですか?」天音も響を見つめて言った。
「この店じゃないところに誘うわ、きっと」響は少し視線を逸らして言った。
「これからどうすればいいと思います」天音は響の視線を追いかけ、響と見つめ合える位置に体を動かして言った。
「天音はあいつに何をさせたいの?」今度は普通の疑問文で響は天音の気持ちを尋ねた。
「あいつには何もしないでいて欲しいだけです。ここでのバイトのことをばらしたり、私の父に余計なことを言ったりしないで欲しいだけです」
その答えを聞くと、響は何か考える顔をしてしばらく黙ってから、言った。
「あいつの弱みを握ることね」
「弱みって?」
「あんたを自分の女にしようとしたことを誰かに知られることよ」
響はアメリカの犯罪物のテレビ番組を見すぎたような口調で、演技たっぷりに笑った。
「誰かに知られるって一体だれに?」
「あたしに決まってるでしょ。それにあたしの弟。弟もあんたと同じ学校だからね。あいつ震え上がるわよ。あんたがあいつに誘われたら、散々じらしてからOKするのよ。で、その店にあたしと弟が入っていって、あんたたちを見つけて騒ぐのよ。そしたら、あいつは適当なこと言ってごまかそうとするわ。そしたらあんたが、誘われて不安だったからあたしに相談したって言うのよ。それで大丈夫、もうこれからどんなことがあっても、あいつはあんたを誘わないし、あんたの秘密を誰かに言うこともないわ」
響は確信を持って話した。自分が高校一年の時に似た経験をしたことを天音に詳しくは説明しなかったが、その時も教師は生徒を誘ったという秘密を守るためには何でもした。
通学に使う電車の路線駅で、通常は通過するだけの駅近くのコーヒーショップを指定したのは響だった。そしてその店に響の中学時代のクラスメートを呼んでおいた。その時からその教師は響の言うことを何でも聞くようになった。医大受験には少し成績が不安定だったが、そのことには目を瞑って医大受験クラスに推薦してくれた。
天音は響の話してくれたことを、デジャブのように聞いた。前にこれと同じことを誰かに言われたような気がしたのだ。天音がそのことを響に告げると、響は怒ったように、「そうよ、多いからね」と言って口をつぐんだ。
「どうする、やるの?」響は天音の決心を急かすように言った。
「ありがとう、響さん、お願いします。」天音の答えを聞いて初めて響は微笑んだ。「うん、きっと誘ってくるわ、あいつ。それまでに準備しときましょう。弟も紹介するわ。明日のバイト終わった後はどう?」
「わかりました。おねがいします」
翌日、天音は芦田響から弟の恭二を紹介された。
「ちょっと不良だけど頭は悪くないし、気はいい奴なの」そう響は言ったが、天音には少し目つきがきついけど、優しそうな子に見えたので、そう言うと、「そろそろ不良も卒業するタイミングだしね」と響は言って揶揄うような笑顔になり、「ねえ」と恭二に頷きかけた。恭二は、黙って天音に頭を下げただけだった。
「あんた、岡田って先生は知ってる?」響が天音に聞かせるように恭二に尋ねた
「いや、よく知らない。俺が知ってるのは自分の担任ぐらいだし。先生シメルんなら知らない方がいいだろ」
「てことだから、ね、天音、今度岡田が誘ってきたら、三人でとっちめよ」
響はいつもの響じゃないようにはしゃいでいた。そんな姉を恭二は終始唇を緩くして見ていた。この姉と弟は本当に仲がいいんだと、天音はちょっと羨ましくなった。
それから一週間も経たずに岡田からの誘いがあった。湘南新宿ラインのある駅近くのレストランを指定された。土曜の夕方に、食事でもしながら中学卒業後の進路の相談をするということだった。何で食事をしながらなんですか、と聞くと、岡田は少し困った顔をしたが、それでも平然と「君はアルバイトで匂いを嗅ぐばかりで、ゆっくりとおいしいものを食べるなんてしてないだろうと思ってね。バイト先よりちょっと高級で、僕の給料でも奢ってあげられるところで、ご馳走しようと思ったんだ」と言ってわざとらしく笑った。
天音が承知して、次の土曜日の午後五時にその店で会うことになった。
「しっかり相談に乗るから、今度会う時に、君の進みたい方向とか色々話して欲しいんだ。できるだけのことはするから、一緒に将来のことを考えよう」と言って岡田は笑った。顔中の造作が真ん中に集まって奇妙に平板な仮面のような笑顔だった。天音は、どこかで見たことがある笑顔だと思った。思い出そうとすると、突然「カチカチ山のタヌキ」と言葉が浮かんだ。岡田の顔が下広がりで漫画のタヌキの顔に似ていたからかもしれない。
「そうね、カチカチ山のタヌキってぴったりだよ。太宰治の『カチカチ山』って小説があるわ。三十七歳のタヌキを十六歳の処女兎が懲らしめる話よ」
響は愉快そうに話した。天音には響の話は通じなかったが、天音も笑った。
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