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連載小説「和人と天音」(9)

 和人
 
 梅雨の雨が三日続いていた。激しく降るわけではないが、小止みになったかと思うとすぐにまたしとしと降り続けるしつこい雨だった。ベランダにじいちゃんが鉢植えしている紫陽花が淡い空色の細かな花びらを開いていた。霧のような雨に濡れても、なんだかうれしそうで生き生きして見えた。
 和人は小降りになった雨空を眺めていた。拳法の練習に行こうかどうしようか迷っていた。和人の拳法の師匠はじいちゃんだった。じいちゃんは若い頃ある流派の拳法を学び、免許を取れるところまで上達してから、ある日きっぱりやめたそうだ。

「どうしてやめちゃったの?」あれは和人が四年生の終わり頃だった。じいちゃんに聞いたことがある。
「もう、その頃は練習どころやない。実戦で使うのがいそがしゅうなったからな」
 じいちゃんはそう言ってペロリと舌を出した。目が照れたように笑っていた。
「じっせんて何?」
「まあええ、もうちょっと大きゅうなったら話したるわ」
 じいちゃんはそう言って、次の型のお手本をやってみせた。

 六年生になってから、和人は一人で練習するようになった。
 まず、体をほぐす柔軟体操をした。続いて腕立て伏せ、腹筋運動、足の屈伸運動などの筋トレをしてから、突きと蹴りの練習をした。続いて防御がそのまま攻撃につながる型の練習をした。
「和人、型ってのは、相手が攻めてきた時にそれをかわして自然に反撃する形や。もうじいちゃんが知ってる型は全部教えた。あとは、その型をどんな時でも自然にできるように繰り返し練習するだけや。お前が考えなくても、体が自然に動くようになるまでな。後は一人で練習したらええ」
 じいちゃんは大学ノートに型の練習法を手書きして、和人にくれた。そして、たまに型を見てくれたが、和人は基本一人で練習するようになった。

 和人の練習場所はじいちゃんから習っていた時も、一人練習を始めてからも一緒で、和人たちの住むマンションから歩いて五分ほどの海岸沿いの竹藪の中だった。その竹藪はちょうど直径五メートルほど中が開けていて、そこに小さな地蔵堂があった。ずいぶん長い間その存在を忘れられているような古ぼけたみすぼらしいお堂だった。その忘れられた地蔵堂前が練習場所だった。週の前半、月曜から木曜までの放課後二時間、そこで練習した。たまの土日に、じいちゃんが付き合ってくれる日は数時間、乱取りを入れた実戦的な練習をすることもあった。その時負けたくないと思っている相手と戦っている自分を想像をしてじいちゃんの攻撃を防ぎ、蹴りや突きをくりだした。「だれにも負けないと思うようになるまで続ける」と自分に誓っていた。

 一人で型の練習をくりかえしている時、どこからか灰色に空気を染めたような人形(ひとがた)の幻が表れて相手をしているような気持ちに和人はなった。幻の相手の身体の動きに合わせて和人も動いて、自然に型の動きに入っていけるように気をつけた。時にその相手が意表をつく動きをした。それは始めのうちは和人が頭で考えた動きだったので、対応もつい考えてしまい少し遅れたり腕や足の位置がズレたりした。でもそれを繰り返していると、自然に身体が反応するようになってきた。その意表をつく動きを色々のパターンで繰り返し練習していると、パターンを考え、練習し、パターンを忘れても体が動くようになっていくのが、和人はおもしろかった。

「和人、今日は練習休みか」じいちゃんが窓の外の雨模様を眺めている和人の背後から声をかけてきた。
「雨が止むのを待ってるんだ。でも、少しの間止んでもすぐ降りだすから、さっきから迷ってる」
「じゃあ、家の中で練習したらどうや」じいちゃんはこともなげに言った。
「ああ、そうだね。じゃあまず筋トレやるよ」和人もさっきまでの迷いがどこに行ったかというような声で応じた。
「じいちゃんとはよく気が合うなあ」和人は思わず口をついて出たひとりごとがおかしくて笑った。じいちゃんは、そんな和人のひとりごとにもひとり笑いにも付き合う気はないようで、さっさと自分の部屋に引きあげた。

 その日、母は少し早めに家を出た。和人とじいちゃんが夕食を食べる時には、もう母はいなかった。
「じいちゃん、負けて勝つ、って本当にあるのかなあ?」
 ポリポリ沢庵を噛みながら、突然和人が言ったので、思わずじいちゃんは箸を止めて和人を見つめた。そして言った。
「ない。勝つとか負けるとか、そんな言葉は勝負へのこだわりが生んだ言葉や。勝負にこだわる限り、勝ちは勝ちやし、負けは負けや」
「正義の戦い、ってのはあるの?」
「ない。戦いは戦いや。戦いには正義なんてない。勝つか負けるか、があるだけや。戦いには敵がいる。敵には負けたくない、それだけや」
「戦いはさけたほうがいいの?」
「そうやな。男が本当に命をかけても戦わなあかん時は一生に一度か二度や。それ以外の戦いはさけたらええ」
「命をかけるのはどんな戦い?」
「お前がお前の命よりも大切なものを守るために避けられないと信じた戦いや」
「命よりも大切なものって?」
「それを見つけるのがこれからのお前の仕事や」
「仕事?」
「そうや」

「こんにちは」玄関から恭二の声がした。和人はじいちゃんの顔を見た。じいちゃんが頷いてくれたので、和人は「ごちそうさま」と一声残して玄関に向かった。
明日は金曜で、作文教室の日だった。恭二とその準備の勉強会をやろうと約束していたのだ。じいちゃんの許可ももらってあった。


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