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連載小説「和人と天音」(14)

「いらっしゃいませ」
 低い陰気な声だった。これなら、あたしたちの方がずっと気持ちのいい挨拶ができてるな、天音はそう思った。店内を見回すと、壁際の席で岡田が右手を胸の前で開いて小さく動かした。
「こんにちは」と岡田に声をかけて天音は岡田と向き合う席についた。岡田はどことなく緊張した笑顔で天音を見つめ「こんにちは」と応えた。

 岡田は食事中、ほとんど一人で喋った。
「中学卒業したらどうするの」という問いに、天音が家を出て働くと答えると、「たとえお父さんと別れて住むことになっても、高校には行った方が良い」という話から始まり、学費が免除される奨学生に推薦してあげるので、学区内の県立高校の入学試験を受けるようにと勧めた。

「本当に家を出る気なんだったら、新しく住むアパート探しとか、生活のことでもできるだけのことをするよ」
 岡田は真剣な表情でそう言った。まるで、天音の生計を支えるつもりがあるとでも言うように。
「先生はどうしてあたしにそんなに親切にしてくれるんですか?」
 響と顔に濃いメイクをした恭二が近づいてくるのを目の端で捉えながら、天音は言った。カチカチ山のタヌキを捕まえた、と思った。
「君はいい子だ。それに、・・・」岡田が言葉を探している間に、響と恭二が二人のテーブルに近づいてきた。

「はい、そこまで」響が小さいがよく通る声で言った。
 岡田は驚きというよりも、恐怖の表情で、響と恭二を見つめた。
「先生、ちょっとやりすぎですよ。個人指導も行き過ぎると色々誤解されます。もう、それぐらいにしときましょうよ」響はさらに一歩岡田に近づいて言った。「何だ、君たちは?」岡田の声は震えていた。恭二は顔に鬼の面のメイクをして岡田を睨んでいた。手にはスマホを持っていた。

「天音の友達ですよ。天音に相談されたんです。担任の先生に食事に誘われたんだけど、行っていいかなあって。で、言いました。ダメに決まってるって。そしたら、でも、断ったら、後が怖いというんです、この子。それで、じゃあ、先生に誘われた証拠を写真にとって、もう二度と誘わないでくださいねって言おうってことになったんです」
「なったんです」同じ言葉を恭二も言って、スマホを岡田に振って見せた。

 岡田は響のことを覚えていなかった。響が、岡田から二度と誘わないし、天音に関して知ってることを誰にも言わないと約束させた。岡田は恨みがましい目で天音を見たが、何も言わなかった。岡田が響と恭二が食べた食事代も払わされた。

「先生、約束は守ってくださいね。でないと、困った写真がばら撒かれちゃいますよ」別れ際に響が言った。
「ばら撒かれちゃいますよ」また、恭二が響の言葉を繰り返して、スマホを振って見せた。岡田は下を向いたまま無言で足早に歩き去った。
 その後ろ姿を見送りながら、響が拳骨を突き出し、恭二と天音が同じように拳を握って響の拳骨に触れあわせた。「やったぜ」恭二が喉の奥からひび割れた声を出した。天音と響は愉快そうに笑った。

 天音は、最近岳の様子が何だかおかしいと気になっていた。岳が仕事でコンビニ店にいるのは午後十時までだったが、ほぼ毎晩どこかで酒を飲んで家に帰ってくるのは深夜0時を過ぎていた。 
 父の岳が寝てしまわないと、天音は眠れなかった。岳を父としてではなく、突然身近に表れたよく知らない男としか感じられなかった。岳が帰ってきた時にはいつも天音は寝たふりをして、岳が眠るのを待ってからでないと眠れなかった。

 以前の岳は、帰ってくると風呂に入ってすぐに寝ていたが、この二ヶ月ほどは、帰ってきて風呂に入った後も起きていることがあった。そして何度か、天音の部屋の扉を細く開けて天音の寝たふりをしばらく見つめていたことがあった。部屋の暗がりを突き抜けて岳の気味の悪い視線が突き刺さってくるような気がして、天音は姿勢を動かないように保つのに身体中の筋肉を緊張させなければならなかった。

 岡田を追い詰めた夜は、珍しく岳は十一時前に家に帰ってきた。天音はまだ起きていたが、いつものように寝たふりをした。岳は天音の部屋に近寄らず、十二時ごろには寝たようだった。
 
 その翌朝、天音は朝食のテーブルに岳と向き合っていた。朝食の用意は天音がしていたが、以前は食事の用意をしても岳は起きてこなかった。この数ヶ月の岳は起きて、天音と一緒に朝食を食べた。この時間が唯一、二人が言葉を交わす時間となっていた。

「中学卒業したら、どうするんだ?」そんなことを岳が話題にしたのは初めてのことだったので、天音はビクッとした。岡田が岳に何か言ったかと思ったからだ。
「高校行きたきゃあ、行けばいい。それぐらいの金は何とかする」
続けて岳は進学資金のことを言った。どうやら、岡田と話したようではなさそうだ、と天音はほっとした。

「高校なんか行かない。あたしは早く社会に出て働きたい。そして、お金を貯めて母さんのお墓を作る。将来あたしも一緒に入れるぐらい大きなお墓を」
 天音がそう言うと、岳はいかにも嫌そうな顔をした。母のことを話題にすると父の話の腰を折ることができることを天音はもう覚えていた。この朝も、岳はそれ以上天音に話しかけるのをやめた。

 天音が食事の後片付けを始めると、岳はテーブルに座ったまま、新聞を読んでいた。流しで食器を洗い始めた天音が、何となく気配を感じて振り返ると、岳がじっと自分を見つめている視線とまともに見つめあってしまった。岳の寝不足で赤らんだ目が、どこか暗い情熱を秘めて天音を凝視していた。
 天音は思わず身震いしそうになるのをかろうじて堪えた。すぐに岳に背を向けて、洗い物に戻った。岳から新しい動きの気配は伝わってこなかった。見てる、まだ見てる、と視線を背に感じたまま、天音は体を硬くして洗い物を続けた。


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