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連載小説「和人と天音」(1)


 和人
 風の強い朝だった。四月だというのに季節はずれの冷んやり湿った風が海から吹きつけてきた。湘南地方らしい海沿いのリゾート風マンションの玄関前に、半ズボン姿の三浦和人が立っていた。海からの風が吹き付けてくると、半ズボンから伸びでた脚を交互に組み換えるように素早く地団駄を踏んだ。
 和人は歩いて20分ほどの所にある小学校の六年生、身長は一メートル四五センチで同年齢男子のちょうど真ん中ぐらいだが、小学校入学以来続けている拳法の練習のおかげで、柴犬のように細いがしっかりした筋肉のついた身体をしていた。特に上腕部と脚のふくらはぎは俊敏な動きを生み出しそうな筋肉がきっちり詰まって膨らんでいた。


「どうかした?」からかうような声の調子で同じマンションに住む五年の岩井直之が、いつの間に来たのか和人の背後から声をかけてきた。
「寒い」和人が一言だけ答えると、直之は目を細め口元を歪めてニヤリと笑い、「今日みたいな日は半ズボンじゃなきゃ良かったのに」と言った。自分の長ズボン姿を見せつけるように、和人の半ズボンから伸びた素足に、自分の長ズボンの脚を近づけて比べるような仕草をした。
 言われたことに何か言葉を返すと、またこちらの隙を突くようなことを言ってきてどんどん直之のペースにはまってしまうことが分かっていたので、和人は何も言い返さなかった。黙って歩き出した。直之は一瞬虚をつかれたのか言葉が出なかった。和人は後ろを振り返らずにスタスタ歩いた。「待ってよう」慌てて直之はついてきた。

 今日は始業式で、授業はない。すぐ前の日曜日に入学式をした新一年生がやってくる。ついこの前まで幼稚園や保育園に通っていた子たちが。その子たちは何が楽しいのか絶え間なく甲高いはしゃぎ声や笑い声をあげて走り回る。いつの年もそうだ、と和人は思った。
 五年前、和人が新一年生の時もそうだった。和人だけが違っていた。初登校の日、和人はじいちゃんに約束した通りにずっと黙っていた。周りの子たちの騒ぎぶりに巻き込まれなかった。前の晩、じいちゃんと風呂の中でこんな話をしたのだ。
「和人、男は、言は多きに務めず、や、どうでもええことをペラペラ喋るんやないよ」
「どうして?」
「ほんとに大事なことを話すときに心を傾けて聞いてもらうためにや。いつでも喋ってると、大事な話に心を傾けてもらえなくなる」
「こころをかたむけるってどういうこと?」
「一所懸命にってことや」
「うん、わかった、じいちゃん、オレだいじなことだけはなすようにするよ。でもさ、だいじなこととそうでないことと、どうやってわけるの」
「それはな、和人、自分で決めるしかないのや」
「ふうん、むつかしいね」
「そうや、だからいつも喋る前に考えるようにするんや。これは言わなくちゃいけないことかどうかをね。大丈夫、和人はきっとできるようになる」
「うん、やってみる」
 あの日から、和人は周りの人たち、大人からも子供からも無口な少年と思われてきたのだ。

「ちょっと、ちょっと、ほら、和ちゃん、あれ見てごらんよ」海に面してマンションが並び建つ幅の狭い海岸道路から車の行き交う自動車道の歩道にでたところで、直之が十メートルほど前を歩いていた二人づれを指さした。小柄で太った男の子と痩せて細長い身体の女の子だった。女の子の方が頭半分ぐらい背が高かった。「おしゃべりカラスのまちこだ」直之は和人に耳打ちするように言った。確かに女の子は和人や直之と同じマンションに住む桜井真知子、二人姉弟の姉でとても活発でおしゃべりな女の子だった。今年一年生のはずだ。男の子のほうは和人の知らない子だった。
 二人は周りをキョロキョロしながら笑ったりなにか話したりしながら歩いているので、和人と直之はすぐに追い付いて並んだ。

「ガアガアガア、おしゃべりカラスのまちこさん、ちょっとうるさいですよ」直之が言うと、「そっちこそうるさい。あたしはさくらいまちこ、せかいでいちばんうるさくないまちこさん」真知子は歌うように言って笑った。何にも気にしていない晴れ晴れするような笑顔だった。真知子の笑い声につられて男の子も笑った。
「お・は・よ・う・ご・ざ・い・ま・す」真知子は和人に笑顔を向けて一音づつ区切るように大きな声で言った。
「おはよう」短くすっきりと和人は言った。


「一年ぼうず、ノロノロ歩いてんじゃないよ。急がないとちこくしちゃうぞ」直之が意地悪そうに男の子を睨みつけて言ったので、男の子は真知子の体を楯にするように後ろに回り込んだ。
「あたしは、おてらのぼうずじゃありません。ただのいちねんせいです」と真知子は相変らず歌うように節をつけて言った。「そうです、ぼくも一ねん一くみ、かわかみのりおです」男の子も真知子の背後から真似をするように節をつけて言った。


「ちぇっ、もういいよ、へたな歌歌わなくても。一年生の相手するとつかれるからいやだよ」直之は和人に同意を求めるように言ったが、和人は直之から目をそらし黙って速足で歩いた。直之は「待ってよう」再び情けなさそうな声を出して続いた。新一年生の二人は遅れないように小走りになってついてきたが、二人でふざけ合いながら競い合うように走り出した。真知子が先頭になり、少し遅れてのりおが続き和人と直之を追い越して住宅街のほうへ角を曲がった。と思ったら直ぐに衝突音がした。「どこのガキだよ」声変わりの掠れた声がした。


 和人が角を曲がって見たのは、路上にひっくり返って泣いている真知子の横に怖い顔で両足を広げて突っ立っている中学生、その二人から少し離れて唖然とした表情で立っているのりおの姿だった。
「やば、あれきょうりゅうキョウジじゃん」直之が和人の上着の裾に手を掛けて言った。近くの公立中学校の制服姿の少年は、ついこの前の三月に和人や直之の小学校を卒業して四月から中学生になった芦田恭二、子供達の間では「きょうりゅうキョウジ」のあだ名で知られた暴れん坊の少年だった。

つづく


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