Q3:趣味はいかにしたら「道」へと昇華できるのでございましょうか?

御山人:「道」というと、孔子の「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉を思い出しますなあ。この道は真理というような意味でござるが、この言葉のポイントは「死んでもいい」という事ですわな。言い換えれば、真理を知る事は我が人生の全てである、ということですな。

これを今回の話の文脈で考えてみますと、人生の全てと言えるような趣味ですな。塾長は「家産を破りかねぬ、危険な没入行為」と仰ったが、「死んでもいい」ならまさにそうでしょう。また真理に至るには「鍛錬、磨き」が不可欠であるのも、古今の宗教が共通して言うところでござる。真理と趣味を並列に述べるな、という声もござろうが、「死んでもいい」と思える趣味は、その人にとって最早真理と等価値でござる。やつがれにとって「邪神大神宮」的活動は天命だとQ1での回答で述べましたな。孔子は「五十にして天命を知る」と言いましたが、やつがれは四十で知り申した(笑)

ではいかにして趣味を「道」にするかと言えば、今度は仏教的な言い回しになり申すが、「煩悩を断つ」ことでございましょう。真理と等価値という趣味ならば、その差し障りとなるものとは、なるべく関わらないということですな。そうは言っても、人間、生きて行かねばならず、また趣味というものは大なり小なり何らかの費用もかかるので、金を稼がねばならない。このへんの理想と現実が、仏道修行とも似ていますな。

しかしいかに働かねばならないと言っても、己の趣味に極力支障がない仕事を選ぶ事は出来る。その他人付き合いとか、家庭とか、日常から人生設計に至るまで、全てそうですな。もし自分の趣味を行う上で、家庭が邪魔なら、最初から持たないとか。それについて世間が何やかや言おうが、関係ない。真理を求める釈迦や孔子が、世間にあれこれ言われて、己の生き方を曲げたのかと。釈迦なんて王子にして国を捨てましたわな。釈迦だってその頃は色々迷いもあったでござろうが、思うところを貫いて、仏教の開祖となったのでしょう。

だから、Q2の答えで述べたように、まず、己と向き合って、自己の内より「運命の趣味」を見出す。そうしたら、それを中心とした人生を歩む。万難を排しながら。紆余曲折、まさに曲がりくねった道を往くが如し。そうして歩んで行くことで、趣味が「道」になって行くのでしょうな。「道」というからには、行く先は遠うござる。到達は不可能かもしれない、理想、仮想のゴールを設定し、それに向かって行くのが、「道」というものでございましょう。

ちょっとストレスが溜まったから、カラオケに行って、ああスッキリしたとか、そういうのは趣味であっても「道」ではないのですな。もしカラオケを「道」にするなら、何万曲だか何百万曲だかある、カラオケのデータベース全曲唱覇を目指す。カラオケは平日の昼が安いから、土日や夜働く。カラオケに行く時は金と時間が惜しいのでもちろん一人で行く。何らかの付き合いで止むを得ず複数で行く時は、その機会をフル活用して未唱曲を歌ったり覚えたりする。リストを作成してメンテナンスして行く。歌いつぶし戦略を立てる。最初のうちは、ああ、俺何をやってるんだろう、と思ったり、人からバカにされたりするかもしれませぬが、例えば一万曲唱覇した、というあたりから、己の描いた軌跡が「道」になっているのが、見えてくるでしょうな。

そんなの苦行じゃないか、何が楽しいのか、と人は思うでしょう。確かに苦行でござる。しかし同時に楽しいのです、当人にとっては。だから、その「道」以外の事が何か起きたとしても、取るに足らない事になる。「道」を進むのに忙しく、それ以外の悩みは気にならなくなる。「道」を全う出来てさえいれば、他の事はどうでも良い。そうすれば、「元気ハツラツ」となるのは、自明の理でございましょう。

こうやって改めて「道」というものを考えてみると、やつがれもまだまだでござるな。道のりは長い。最高です🕷

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