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育てる

母と一緒にいると、「子育て」をしている気持ちになる。子供を産んだこともなければ、育てたこともないのに。
でも、「子育て」ではないはずだからと考えていくと、「親育て」なのだろうか?
きっと、その先には、私が育てられている気がするから、「私育て」でもあるのかな?

何かを探していたり、あるいは思い出そうとしている時、まずは見守る。
しばらくして、声をかけ、手伝いが必要そうなら手を貸す。 
思い出そうとしている姿を見るのは、こちらも、もどかしくて大変だ。
でも、母が思い出せた時は、やっぱり嬉しい。
「やったね、お母さん」と思う。
病気が分かる頃から、こんなにも母の一挙手一投足をさりげなく見守ったことは、私の人生でなかったと思う。
いつもいつも、私の方が見守られて、支えられてきたから。
正直、色々と慣れないことも増えてきた。
微妙にかみ合わない会話や、何度も尋ねられることなど。
そして、それと同時に、疲れてしまう気持ちも、毎回ではないけど、必ずある。
母が忘れて、ケロッとしているのに、私の方が自分の気持ちの持っていく場所に戸惑ってしまうこともある。
イライラとか怒りの気持ちではない。
しいていうなら、「切なさ」だろうか。
できることもあれば、できないこともある。
あるいは、苦手なことも、少しずつ、母の中で起こっている。

最近は、父と2人でスーパーでお買い物する日が増えてきている。
さっさっと歩く母と、ゆっくりテンポで歩く父。
「私は、私のペースで歩きたいの。
 ついてこなくていいよ」
シャーシャーと母が、父に言う日もある。
そんな時の母は、思春期の子供が親に対して言う感じ。反抗的だ。
「まあまあ、そんなこと言わずに…」と言いながら、連れだって出かける父。

ある日は、父が「どちらかが、悪者にならないとしょうがないものな…」と言っていた。
私は、とても切なく苦しい気持ちになった。
病気ならではの言動。
病気がさせている言動。
分かっていても、つらい時がある。
そばにいればいるほど、喜びも切なさも、つらさもある。
でも、そばにいる。父も、私も。

(2012.5.18)

この頃は、まだ母が思い出そうとすれば、思い出せたようだ。
今は、そんなことはない。秒単位で、忘れていく。
父や私は、かみ合わない会話にも慣れ、何度も尋ねられることにも慣れた。
現状、母の病気ならではの言動は、以前よりも増えた。そして、そばにいると、切なく苦しい気持ちもかわらずにある。
今年で、認知症になって9年目。
「(病状が)進んできたなぁ…」というのが、最近の父と私の共通の意識。

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