【特許研究】AR眼鏡用ガラス~光学ガラスの新たな戦場となるか~

AR眼鏡とはこんな装置

簡単に言えば、眼球の網膜に直接、映像を投影する眼鏡型のプロジェクターです。

表示装置の正面には回折格子があり、回折格子は正面から入射した光線をほぼ真横へぶん投げます。この光線は板ガラス内部で全反射しながら眼球の方向に伝播します。眼球の前まで到達した光は眼球の前面に設けられた別の回折格子によって眼球の方向に再び曲げられガラスから射出され、眼球の網膜上に結像します。これがAR眼鏡の原理です。眼球前面の回折格子を透明なものにすれば外界からの光に重ねて映像を網膜に投影できるというものです。
ここで回折格子を貼り付ける土台を構成し、光線の伝播を担う薄い板ガラスのことを「ウェーブガイド」というそうです。この装置の技術的中核は2つの回折格子であり、ウェーブガイド自体は脇役として存在している「ただの板ガラス」です今回のショット社の特許はこのウェーブガイドに適した光学ガラスに関するものです。


ar眼鏡用ウェーブガイドに必要な特性とは


ARウェーブガイド用ガラスに必要な特性は何でしょうか。汎用光学ガラスを流用したのでは不都合な点はあるのでしょうか。


高屈折率特性 ウェーブガイドガラスの屈折率はAR表示の視野角に直結します。ガラスの高屈折率化以外に視野角を向上させる手立てがないので核心的に重要になります。実用的な視野角を得るために1.8以上は必要。屈折率が低いガラスは検討の俎上にすら乗らない。

低分散特性 汎用光学ガラスでは高屈折率と低分散を両立したガラスというのは光学設計上のキーマテリアルとして強い需要があります。
ところがウェーブガイドガラスは、全反射で光を伝える性質上、屈折は基本的に利用しません。光の屈折が無関係であることから、分散(=屈折率の波長による差)の大小はほとんど無意味です。

高透過率 一般的に光学ガラスは高い透過率が求められます。ウェーブガイドでは光が全反射を繰り返しながらガラス内を長距離進行するので透過率の影響を受けやすく、透過率は汎用光学ガラス以上に重要になります

低比重 AR眼鏡では製品重量全体に占めるガラスの比率が大きくなるのでガラスの比重が製品の重量を決定づける要素となります。さらに長時間装着して使用する前提の装置であるため、製品重量の軽さが重要なアピールポイントとなります。これらの理由から、ガラスの比重は特に重視されることになります。

耐久性 物理的、化学的な耐久性については、AR眼鏡は通常の光学機器よりも過酷な使用状況に晒され、頻繁な清掃を受けるので相対的な重要度は高くなります

加工性 ウェーブガイドでは加工難易度の高いウエハー(薄板)への加工が必要となるので汎用光学ガラスと比べてより厳しい水準が求められます。

全体的に見れば「分散特性を無視lしても良い」という光学ガラスの中では特異な条件がある代わりに、透過性・耐久性・加工性などは汎用光学ガラス以上に厳しいものが要求されます。特に高屈折率・低比重の重要性が高く、ショットの特許ではこの点を重視した発明となっています。

ショットの特許



高屈折率低比重ガラス

具体的な組成

組成としてはケイ素・バリウム・チタン・ニオブそれぞれの酸化物を中心とするものです。


特許の請求で示された条件は屈折率や比重、透過率など完成したガラスの特性に関する条件が多く、それだけではいわば「『おいしい料理の発明』で『おいしさの定義』だけが書かれていて具体的な料理の作り方は何ら開示されていないようなもの」なのでこれではまず特許にならないので組成範囲も指定されています

基本的な条件

上の例え話で「おいしさの定義」に相当する条件で、ウェーブガイド用ガラスとして好ましい条件がいくつか提示されています

屈折率nd 1.80-2.00
アッベ数vd 19-27
比重÷屈折率nd 1.97以下
透過率 波長450nm 試験片厚さ10mm で80%以上。

まず、屈折率の条件について。ウェーブガイドガラスとして使うために屈折率1.80以上が一つの目安として使われてい1.80-2.00という条件が指定されています。わざわざ上限を設けるのは奇妙にも見えますが、屈折率2.00を超えると超高屈折ガラスの領域となり、高い屈折率を得るために安定性や透過などを犠牲にした組成設計をする必要が出てきます。バランスの良い現実的な設計のガラスが得られる範囲として屈折率に上限が設けられているものと考えられます。

アッベ数の条件は19~27とされています。これは屈折率1.8~2.0のガラスとしては典型的なアッベ数です。ウェーブガイドガラスではアッベ数を限定する必要はないのですが、限定したほうが審査は通りやすくなります一方で条件を限定ししまうととそれを逆手にとって競合他社が特許回避をしてくる可能性もあります。つまり、回避の難しい巧妙な条件を含めると特許を取得しやすく特許回避もされにくく特許戦略上有利になります。その観点からこの条件を見るとアッベ数27以上にして回避するのは高屈折率と大きなアッベ数を両立する必要があり、そのような組成設計では比重が過度に大きくなりウェーブガイド用ガラスとしては魅力に乏しい品種になるので特許回避されても競合製品としては大きな脅威にはなりません、逆にアッベ数を小さくして回避しようとすれば、そのようなガラスは透過率が過度に低下する傾向があるので、ウェーブガイド用ガラスとしては(中略)大きな脅威になりません。


次にこの発明の特徴的な点として比重の条件が「比重÷屈折率」、以下「比重屈折率比」と称する。という指標の形で指定されています。この比率が小さいほど、つまり比重が小さく屈折率が高いガラスであるほどウェーブガイドガラスに適しているということになり、この比重屈折率比が1.97以下という条件が示されています。例えば屈折率2.0のガラスであればその比重は3.94以下ではならないということです。屈折率が1.80のガラスであれば、比重の条件はより厳しくなり3.46以下が必要になります。

比重と屈折率の傾向

単純に屈折率と比重を横軸と縦軸にとってグラフ化すると、明瞭な右上がりのグラフになります。高屈折率のガラスほど比重が大きくなるという一般的傾向が読み取れます。また、散布図の中にはいくつかの異なった直線に沿った系列が見られます。これは同じ組成系で成分の比率が異なる品種が連なったものと解釈できます。

比重屈折率比と屈折率の傾向

縦軸に比重の代わりに比重÷屈折率をとるとこのような図になります。屈折率による補正を加えてもなお、屈折率が大きくなるほど比重屈折率比の値も大きくなる右上がりの傾向が生じています。このことから、高屈折率化すると屈折率よりも比重の方が大きな割合で増加することが読み取れます

グラフを詳しく見ると比重屈折率比が2.0以下で屈折率1.8以下の領域に多くの品種が水平に近い列をなし、それは屈折率1.80付近で途切れていますこの系列はケイ酸チタンガラスの系列で、低比重という点でウェーブガイド用ガラスに適性があることが分かります。しかしこの組成系のガラスは屈折率1.8を超える高屈折率化に限界があり、屈折率1.8を超えるような品種がほとんどありません。

特許の条件で指定されているような、屈折率1.8-2.0、比重屈折率比1.97以下の領域には、特別にに高屈折率化したケイ酸チタンガラスとリン酸ニオブ系ガラスが散在しています。これらの品種を」リスト化すると下の一覧のようになります。


これは今回の発明の屈折率と比重の条件を満たすオハラ社のガラスのリストです。比重屈折率比が小さい順にソートしていますが特にリン酸ニオブ系ガラス(NPH)が上位を独占していてウェーブガイド用ガラスに高い適性を持つことが分かります。

リン酸ニオブガラスの欠点

ただしリン酸ニオブガラスは高い性能を誇る一方でコストや加工性に欠点を抱えています。リン酸を含むガラスは溶融時に白金るつぼを侵食しやすく、生産設備の寿命を縮め、結果として製造コストを高くする問題があります。また、リン酸ニオブガラスは結晶化傾向が強くガラス安定性が不十分で、ウエハーへの加工にはやや困難があります。また主要な原材料である酸化ニオブが高価なため、チタン系のガラスと比べて原材料価格の面でも高価になります。

ケイ酸チタンガラスの限界

一方で、従来のケイ酸チタンガラスはコストでは有利なものの1.8を超える高屈折率の品種があまり開発されておらず、性能面でやや不足がありました。チタン系ガラスは、透過率やガラスの安定性が障壁となって高屈折率高分散化に限界があり、屈折率1.80前後で発展が頭打ちになり、その間に、高屈折率化に有利なリン酸ニオブガラスが登場したことから、近年あまり顧みられておらず、半ば「旧世代の技術」になりつつありました。

ショットの思惑

しかし上の表からもわかる通り、ケイ酸チタンガラスも高屈折率低比重ガラスとしての適性は十分に有しています。そこで、今回のショットの特許出願このケイ酸チタン系ガラスを発展させることで、特にコストや加工性でリン酸ニオブガラスを上回るウェーブガイド用ガラスを実現し、その特許権を手にしようというものでしょう。ケイ酸チタンガラスは研究開発や特許出願が下火となっているため、競合が少ない状態で広範な条件をカバーする特許権を取得しやすい状況にあります。

特にリン酸ニオブガラスはオハラとHOYAが非常に活発な研究開発を行っており多くの特許を押さえている状況です。この競争にやや乗り遅れた感のあるショットにとってはケイ酸チタンガラスの復古は大局的な技術開発競争の上でも大きな意義のあることです。

このガラスは一般的な酸化物ガラスで、ケイ素、バリウム・チタン・ニオブの酸化物から構成されています。このような組成の光学ガラスは組成の具体的な範囲の違いこそあれすでに知られており、新規なアイデアというよりは基本的には既存の技術を改良することにより課題を解決するタイプの発明と言えます。

その他の高屈折率ガラス

鉛ガラス

鉛ガラスは光学ガラスの歴史の最初期に登場した高屈折率ガラスですが、鉛の有毒性のため近年はほとんど使われていません。また、比重がかなり高いという点からもAR用ガラスには不適です

ホウ酸ランタンガラス

ホウ酸ランタンガラスは単にランタンガラスとも呼ばれ、1940年代以降に普及が進んだ高屈折率低分散ガラスです。高屈折率低分散特性を持ち透過性も良好な半面比重が大きく加工性が悪いという欠点があります。ウェーブガイド用ガラスに低分散特性は必要がないため、比重が大きく加工性に難のあるランタンガラスは汎用光学ガラスとしては優れていても、ウェーブガイド用には完全にミスマッチです。

ビスマスガラス

ビスマスガラスはケイ酸チタンガラスの次の世代の高屈折率高分散ガラスとしてリン酸ニオブガラスと同時期に登場した新種のガラスです。この組成系のガラスは鉛ガラスに似て比重がかなり大きく、転移点温度が低くモールド加工に適性が高い反面、硬度がかなり低く使用中に傷がつきやすいという欠点があるのでウェーブガイド用ガラスとしてはやはり不適です。


既存の高屈折率ガラス
鉛ガラス ホウ酸ランタンガラス(ラン短ガラス)ケイ酸チタン ケイ酸ニオブ リン酸ニオブ

鉛ガラス、すでに絶滅、比重も高く全く不適比重/屈折率比2.5以上

ホウ酸ランタンガラス、低分散特性が特徴だがAR用ガラスでは重要でなくミスマッチ。比重が大きく、加工性も悪い。

ケイ酸チタン・ニオブガラス 屈折率1.8~1.9を超えるような高屈折率化には限界があった。鉛ガラスの代替として最も一般的なもの

リン酸ニオブガラス 汎用高屈折率光学ガラスの主流。化学的耐久性が良好。透過性に難あり、結晶化しやすいのでウエハーへの加工が難しい。

ビスマスガラス 硬度が低すぎる、原料価格が高い。


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