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沈黙の牧師と呼ばれていた聖職者たちも

風邪の症状は改善しない。仕事の用件で、外の移動が多い一日。早めに帰宅するが、家事もしない、読書もしない、日記も書かない。何もする気が起きない。部屋の外で、雨がしとしと降っている。部屋の中は、冷房を入れると肌寒いが、止めると蒸し暑く、どちらにせよ、ゆるやかな地獄。

夕食後、奥さんと今度の三連休の計画を話し合う。日帰りでひたち海浜公園に遊びに行かない?と提案すると、彼女はふうんとつぶやくだけで、賛成なのか反対なのか判然としない。ついでに公園近くの漁港に寄って、海鮮丼やお寿司を食べに行くのはどう?と重ねると、今度は二つ返事で彼女から賛成の返事をもらう。

パブロン飲んで床に臥せる。明日こそは、風邪が治ってほしい。祈りながら、目を瞑る。

 意外な影響は、これだけに留まらなかった。たとえば教会に通う人びとが、説教壇に立つ人を偏見や疑いの目で見ることはまったくなくなった。病魔は例外なく、恐るべき被害をもたらしていたので、教区を担当する教会の聖職者にも多くの犠牲者が出たのは確かである。なかにはこの惨状に怖じ気づき、避難する場所を見つけて、田舎に脱出する聖職者もいた。こうして見放され、無人と化した教区の教会が出てくると、いわゆる非国教徒にこうした教会で説教するよう頼むのを疑問視する信者はいなくなった。この聖職者たちは、数年前に定められた「礼拝統一令」という法律のせいで地位を奪われていたのだったが。国教会の聖職者たちも、このような状況では非国教徒に助けてもらうのに難色を示すことはなかった。だからこの時期は、沈黙の牧師と呼ばれていた聖職者たちも口を開く機会を与えられて、市民の前で堂々と説教をしていたのだ。

 ここから次のことがわかるだろう。そしていまこれを指摘するのは、的外れでないと思いたい。つまり、死を目前とすると、正しい信条を持つ人たちは、すぐに立場の違いを乗り越えるということだ。現在、ぼくらのあいだでは不和が育ち、敵意がくすぶり続け、偏見が消えず、隣人愛とキリスト教徒の融和が破られたままで、いつまでも変わらないどころかひどくなるばかりだけれど、それは主にぼくらが安逸な暮らしを送り、信仰の問題を切実なものとして感じていないせいなのだ。<中略>
 
実際このころには、国教会の礼拝になじんでいた人たちが、非国教徒が自分たちに説教するのを認めるくらいには友好的になったのだし、非国教徒の方も、独自の少数意見にこだわってイングランド国教会の組織と袂を分かっていたが、いまや教区の教会に通い、かつては認めなかった礼拝の仕方を受け容れていた。ところが、疫病の恐怖が和らぎはじめると、すべてが望ましくない方向に揺れ戻し、元の分裂の道を進むようになってしまった。

ダニエル・デフォー(著),武田将明(訳)『ペストの記憶』研究社,p.224‐225

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