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金がほしくならなくなるぐらいの金がほしい

 昼下がり、鶴岡八幡宮に寄る。お参りはしない。源氏池だけ眺めに行く。この季節、生い茂る蓮の葉が池面を覆い隠す。たくさんの河童の雨傘。

 ばしゃばしゃ音がする。観光客が池の鯉に餌やりをしている。数匹の亀や鯉が、互いに体を押しのけ合いながら餌に群がる。動物たちの熾烈な闘いを目撃した人々が、うわあっと歓声をあげる。

 池の畔のベンチに老婆がやって来る。懐から小袋を取り出し、ベンチの上に無数の白い粒をばら撒く。米粒のようだ。

 鳩が四方から次々と集まり、ベンチ上を埋め尽くす。鳩はお米も食べるんだよ、へへへへ、へへへへ、と老婆が笑う。老婆はお米を撒き続けながら、鳩はねえ、お米も食べるんだよ、へへへへ、へへへへ、と繰り返す。本当に何度も繰り返す。


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 鳩は鶴岡八幡宮に所縁がある。本殿、楼門の掲額に描かれた「八幡宮」という文字の「八」の字が二羽の鳩の形になっている。

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 「八幡宮」の神使(しんし)は鳩。稲荷神社における狐である。大分や京都など全国に点在する「八幡宮」を移動する際、鳩が道案内をしたという言い伝えがあるらしい。鎌倉幕府時代の武将は、戦の勝運を呼ぶ鳥として鳩の絵柄を家紋に使い、八幡信仰が栄えて全国に広まったとも言われている。「源平盛衰記」や「太平記」、「梅松論」などの軍記物には、鳩が出陣に際して勝利の鳥としても数多く記されている。

 豊島屋の銘菓「鳩サブレー」が鳩をモチーフにしたのも、この鶴岡八幡宮に由来するらしい(詳細は豊島屋のHPより)。

 源氏池を眺めた後は、小町通りのミルクホールでアイスコーヒーを飲んで、日が暮れる前に帰宅した。


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 夜、マーロン・ジェイムズの小説『七つの殺人に関する簡潔な記録』の続きを読む。700頁もある。全く「簡潔」ではない。本が分厚いので持ち運びが難しい。在宅時しか読まない。

 レゲエミュージシャン、ボブ・マーリーが襲撃された実際の事件を、ジャマイカ島の麻薬取引の抗争の関係者たちの声だけで語りまくる。

 語り口は軽く、リズミカルで、からっとしている。誰かの声は、次々と言葉を発し、ページの後に消えて、時々余韻が残る。2、3ページに一度、ページをめくる手が止まる。

チャンピオン騎手はレースに勝つかもしれないし、負けるかもしれない、だがやつが負けるほうに賭けたほうが倍率が高くなる、だからやつが負ければおまえらがどれだけ夢見ても追いつかないくらいの金が稼げる。たっぷり金が入るから、ゲットーじゅうの男が全員、自分の女に一番いいポスチャーペディックのマットレスをシーリーの店で買えるくらいになるわけだ。

 オレはマットレスなんかどうでもいい。オレはただ、外じゃなくて屋内で水浴びしたい、自由の女神が見てみたい、リーのジーンズをはきたい、泥棒がリーのパッチを縫いつけただけの間抜けなジーンズじゃなくて。いやそうじゃない、オレがほしいのはそういうんじゃない。オレはもう金がほしくならなくなるぐらいの金がほしい。外で水浴びしたいから外で水浴びするようになりたい。なんだ、シーリーのマットレスなんかクソじゃないか、もっといいのはないのか、と言ってみたい。アメリカのことが好きだが行かない、いつでも行きたければ行けるのだとアメリカにわからせてやりたい。金をいくら捨ててもかまわないみたいな暮らしをしている人間がいて、そいつらがオレのことをまるで動物みたいに見るというのにはいいかげん飽き飽きしているからだ。金が十分にあるから、やつらを殺してもオレにはまだ金があるから、気にしなくていい、そんなふうになりたい。騎手を誘拐して、説得して、いっちょ上がり、と兄弟分は言う。

マーロン ジェイムズ(著),旦 敬介(訳),『七つの殺人に関する簡潔な記録』,早川書房,P.69

 本当は贅沢したい訳じゃないし、欲しいものなんてありゃしない。もう金がほしくならなくなるぐらいの金がほしい。

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