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彼の意志によって自由に決定できるとは限らないのである

小雨が降る朝。風邪は喉から鼻に移る。奥さんは朝からヴァイオリンのレッスンに出掛けた。今回が、彼女が5年間続けてきた習い事の、最後のレッスンらしい。私は体調がだいぶ快復したので、ジムに行く。

トレーニングしながら『ペストの記憶』を読み終わる。「災害」に直面する17世紀ロンドンの人びとの振る舞いは、現代の私たちと本質的によく似通っている。語り手は、家屋閉鎖などのロンドン市庁の施策を執拗に批判する一方で、行政の対応の褒めるべき部分(遺体回収などの衛生管理)はきちんと讃えている。混乱する民衆の愚かさを嘆く一方で、彼らの助け合いの精神が発揮された場面も取りこぼすまいとしている。物事の一面だけではなく、両面をそのままに描写しようとする態度に、洗練されたジャーナリズムを感じる。訳者は、本書解題で次のように述べている。

とりわけ現代日本に住む人びとにとって、本書が三百年前のイギリスで書かれたことは、にわかには信じられないのではないか。行政府が毎週公表する死者の数に一喜一憂し、さらにはその数値を疑う市民たち。突然大量に現れた自称専門家たちの説く、真偽の定かでない対策。さっさと被災地を後にする人と、あえてそこに留まる人。さらには、避難者を忌避する自治体や、後日被災地に戻った避難者を排除する残留者。風評による経済被害。これらは、2011年3月11日に発生した地震と津波、そして原発事故のあと、私たちが見てきた光景の一部と重なる。ただし、勘違いしないでほしいのは、本書がはるか三百年後の原発事故を予見していたからすごいのではない、ということだ。そうではなく、1722年という、まだ世界が近代に入り始めたばかりの時期、アメリカ独立もフランス革命も経験していなかった時代に、すでに市民が市民を管理するという自律的な権力の抱え得る問題点を理解し、ペストという壊滅的な危機を媒介にして、その光と闇を描き切った点にこそ、本書の普遍的価値があるのだ。

ダニエル・デフォー(著),武田将明(訳)『ペストの記憶』研究社,p.356 

昼は何をしていたかあまり憶えていない。明日の旅行に備え、奥さんと部屋で二人、のんびり大人しくしていた記憶がある。私は、数日分の日記をまとめて書き、奥さんはうたた寝をしていたような気がする。

夜、堀田善衞の『路上の人』を読み始める。青山ブックセンター本店の特集棚をきっかけにこの本を手に取ったはずだが、何が琴線に触れたのか、今でははっきりと思い出せない。冒頭を少し読んで、ああこれは面白そうな物語だ、と思う。ただ興味の向くままに選書しているはずだが、こうして記録してみると、最近はキリスト教絡みの小説ばかり読んでいることに気づく。信者でもないのに。

さらに、道路自体もまた、かの木彫扉の如くに、実は霊の世界に属するものであったのである。未知の国の、未知の森を抜ける道路は、さまざまな霊の支配する空間である。特に十字路は、良き霊と悪しき霊とのたむろするところであり、敬虔な祈りを捧げてから、右するか左するか、直行するかを選ばなければならなかった。しばしば町の入口の十字路は、処刑された者や自殺者を埋めるところであり、そこに絞首台が立ち、死体がぶら下げてあった。

 中世の、座せる者とその聖者たちと、天上の音楽と悪魔とその怪獣怪魚の支配する西欧世界のなかから、一人の主人公を選びたい。彼もまた路上の人である。そして明日また路上にあるかどうかは、彼の意志によって自由に決定できるとは限らないのである。

堀田善衞(著)『路上の人』徳間書店,p.20

堀田善衞は、数年前、画家のゴヤのことが知りたくて『ゴヤ』を読み始め、2巻途中で挫折している。だが、この本のおかげで、スペインに対するイメージががらりと変わった。情熱の国、フラメンコ、シエスタ、レアル・マドリード、といった断片的な印象より、夏は灼熱に喘ぎ、冬は寒風吹きすさぶ不毛の土地、豊穣の神に見放されたかの国の厳しい自然の風景が、今も私の脳裏に焼きついている。実家に帰省した時、同書の1巻を読んでいる私の姿を見た父が、自分の蔵書から同書の4冊全巻を引っ張り出し、私に差し出してくれたことがある。彼が若い頃に購入したものらしい。当時の父にとって、本とは開いて読むものではなく、本棚に並べてただ満足するものだったらしいので、彼自身はおそらく一頁も読んでいないのだろう。それでも本の状態はボロボロで、黄ばんだ頁をめくるたびに、目に見えない埃が舞い上がるような気がして、咳払いをせずには読み進めることができない。丁重に彼の厚意を辞退し、2巻はKindleで買い直した。

あとは堀田善衞と言えば、数年前に訪れた三鷹の森ジブリ美術館。同館に再現された宮崎駿の書斎の机上に、彼の著した『方丈記私記』があったことをうっすら憶えている。当時の私の知識と言えば、堀田善衞と言えばゴヤの専門家、としか認知していなかったので、鴨長明の方丈記まで論じているのか、守備範囲が広くて羨ましいな、方丈記の本も面白そうだな、と思ったことをよく覚えている。

早めに就寝する。明日は朝5時起きだ。SmartNewsのトップに並んでいた記事。

・メイ英首相、EU側に「敬意」を要求 英離脱案の拒否を受け(CNN.co.jp)
・”復興”流鏑馬、誇り胸に阿蘇神社で3年ぶり奉納(熊本日日新聞)
・シベール、通販カタログ一新 旬の商品開発、発信(山形新聞)

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