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僕は向こうに見える島々の輪郭に興味もなかった

風に吹き飛ばされる朝。

台風接近を警戒し、午後から自宅作業に切り替え。外の風はますます強くなる。強風で部屋がガタガタ揺れているような気がしたが、ただの貧乏ゆすりかもしれなかった。

夕方に仕事を終え、荒れ狂う風のなかジムに向かう。道の途中、私の先を行く二人組の女性が、バナナの皮を剥きながら歩いている。よりによってこの強風のなかでバナナですか、と思っていると、彼女たちはそのまま私の向かうジムの中に入って行った。

トレーニングしながら、今月号のナショナルジオフィックを読み、ワハーン回廊という桃源郷のような場所を知る。

 ワハーン回廊は、人間が暮らす場所としては、世界的に見ても秘境中の秘境だ。タジキスタンとパキスタンに挟まれた全長320キロほどの細長い土地で、中国西部の高山地帯まで続いている。19世紀にロシア帝国と大英帝国が、それぞれの領土を隔てる緩衝地帯として設け、それ以来、アフガニスタンの一部となってきた。回廊には、牧草地と石積みの壁に囲まれた村がいくつかあり、1万7000人ほどが農業や放牧で生計を立てる。私にとって、ここは南アジアへと抜ける出口だった。

 私のアフガニスタンの記憶といえば、小型トラックに乗った兵士たちや爆弾が炸裂するときの振動だ。その記憶とは対照的に、ワハーン回廊は平穏なオアシスのようだった。私たちは何も恐れることなく、小麦が実る田園地帯を歩いた。そこでは、男性たちが雄牛を引いて小麦を脱穀し、時代がかった水車が小麦を粉にしていた。ワハーン人はイスマーイール派のイスラム教徒で、女性たちはベールで顔を隠していない。雪に覆われた山には、過激派ではなく、ユキヒョウがうろついている。銃を持っている人間など、ここには一人もいない。それは、アフガニスタンの理想的な田園風景だった。

「今は幸せな時代です」と羊飼いのダルビシュ・アリは言う。「1990年代には、お茶すら手に入りませんでした。暮らしは良くなりました」

ナショナルジオフィック日本版 2018年9月号』日経ナショナルジオグラフィック社,p.68

かなりの秘境、さすがに観光地化はしていないだろうと思いつつwebで検索してみると、日本語の渓谷ツアーのサイトURLがトップにヒットする。なんだもう観光地になっているのかと思って、なんとなく興が醒める。そのあとに『ミメーシス』。「禿鷹のように貪欲な群衆が、」で始まるアンミアヌスの文章がおどろおどろしくて惹かれる。

アンミアヌスの世界は、われわれの住んでいる普通の人間社会の戯画であることが多く、また、しばしば、より悪しき悪夢だ。といっても、それは裏切り、殺害、拷問、陰険な陥穽、密告といった恐ろしい事が起きるからではない。恐ろしい事件そのものは別にそう珍しいことではあるまい。アンミアヌスの世界の恐ろしさは、むしろ、暗黒に対する光明といった対立物がないということがある。〈中略〉

 感覚的描写においてのみ精彩を放ち、執拗な修辞的情熱にもいかかわらず諦念に満ち、いわば麻痺状態に陥っている、というのが、彼の歴史記述の態度であって、したがって、償いとなるもの、よりよき未来を指示するもの、より自由で新鮮な人間らしさを示す行動や事件はどこにも示されてはいないのである。〈中略〉

 アンミアヌスの描写方法が、セネカとタキトゥス以来形成されつつあったもの、戦慄すべき感覚性を発揮するきわめて悲壮な文体の支配する時代の到来を意味することは、明らかである。

E・アウエルバッハ(著)篠田一士・川村二郎(訳)『ミメーシス 上 ヨーロッパ文学における現実描写』筑摩書房,p.113-114

似たような文体の例として引用されるアプレイウスの文章は、内容がナンセンスなだけになお良い。本筋と無関係だが、驚くべきは、これら古代ローマ時代のラテン文学の作品が、既に日本語に訳されていること。興味本位でAmazonで彼らの作品を検索したら、ちゃんとヒットする。日本の海外文学研究ってすごいね。

帰宅後は、ふだん料理をしない男がたまに作る料理、のお手本のような和風パスタを作る。パスタのゆで汁をフライパンに入れると、ゆで汁に含まれたグルテンやでんぷんの影響で「乳化」が進み、ソースにほどよくとろみがつく、というので試す。が、成功したかどうかはよく分からない。結局、焼きそばのような仕上がりに。夜、帰宅した奥さんと一緒に食べる。

夕食後は無性にアイスが食べたくなり、近所のコンビニへ。相変わらず風が吹いているが、その勢いは峠を過ぎていた。ビニール袋があたりを舞い、電柱からぶら下がる電源コードが振り子のようにぶらんぶらん揺れている。人通りは多い。Uber Eatsのドライバーが、強風のあおりをものともせず、果敢に自転車を漕いでいる。自分もそろそろ始めなきゃなとつぶやくと、奥さんがどうせやらないまま終わるんじゃないの、危なそうだし、やめなよと言う。

ジャイアントコーンをあっという間に食べ、その後は居間で昨日の日記を書く。あんまり書くことないなあ昨日は、と奥さんにこぼしながらPCに向かうが、書き始めるとだらだら長文を書いてしまって、なんだか恥ずかしい気持ちになる。

日記を書き終えた後は、ウィラ・キャザー『大司教に死来る』と阿久津隆『読書の日記』の2冊を、気の向くまま交互に読み進める。『読書の日記』は、ときどき、明らかな虚構を混ぜたり、わざと肩透かしをさせるような表現を放り込んでくる。2月5日の日記は、昨日までは都内の店にいたはずが、急に岡山の豊島からフェリーに乗って宇野に行っている。

宇野の町の様子は僕の覚えている限りだとそう変わっていないようであいかわらず静かでぽつぽつと何かがあるふうで好ましかった。どの通りを曲がってもすぐ前に海がひらけるような気がした、潮の匂いが漂ってくるわけではないけれど空気中に海を知らせるものが満ち満ちていた、空の見え方も吹く風の音も海のすぐ近くであることを知らせるものとしか思えなかった、それらはすべて海がたしかにそこにあることを知っているから感じる感じ方でしかないのだろうか、そうではないなにかがあるような気がしてならなかった。

 港のところに出ると小さい、スタンドというのはたしかに本来こういうものかもしれないという小ささのスタンドがスタンディングしていてそこでカフェラテをお願いしてカフェラテを飲んだ。ボラード、舫い杭。それがあったのでそこに座って、海を見ながらカフェラテを飲みながら煙草を吸いながら様々なことが去来しなかった。僕は向こうに見える島々の輪郭に興味もなかった。

阿久津隆『読書の日記』NUMABOOKS,p.354‐355

SmartNewsを見るの忘れたまま、寝る。

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